「心の庭」を耕したい!
ぎょうせい出版から『家庭は心の庭』が出版されました。
著者の一人ということで、1冊贈呈していただきました。
自分の書いた文章が掲載されている本が、
全国の書店の店頭に並ぶのは、初めてのことです。
なかなかいい気分です。
懐と時間に余裕がございましたら、ご購読いただければ、幸いです。
オンライン書店;ビーケーワン http://www.bk1.jp/product/03061137
セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books/search_result/?fromKeywordSearch=true&kword_in=%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%BA%AD&ctgy=books&oop=on&submit.x=33&submit.y=8
のどちらを利用されても、送料は無料です。とりあえず私の文章だけを読もうと思ってくださった方は、このブログで読めますので、ご購入の必要はありませんが、出来ましたら先に紹介致しました1席の「おすしやさん」の文章も
ぜひお勧めいたします。
「心の庭」を耕そう!
主題 家庭は『心の庭』
副題 『心の庭』を耕したい
木村 康三
論文の趣旨
本来、家庭というものは、和やかな団欒の場であってほしいものです。
ところが、昨今の家庭では、朝餉のにおいで目覚め、夕餉には賑やかな食事に
象徴される風景が減ってきているように感じられます。
団欒があれば、家庭のつながりも強く、生活の基本を理解するとともに
自己形成を促し、さらに目標に立ち向かう勇気を産み出すこともできるでしょう。
元気を取り戻すオアシスの役目を果たせるよう、家庭が「心の庭」となることを
切に願って、本年の課題としました。
財団法人 北野生涯教育振興会 論文募集係
本文
四人の男の子を育てた母は、今八三歳。アルツハイマー型認知症に苦しみながらも、「人間働かな呆ける。呆けたらおしまいよ。」とつぶやき、骨粗鬆症で大きく曲がった背中が痛い痛いと訴えながらも、デイサービスに週六日間通っている。「デイ」は、四十代から二十七年間働いた「職場」と同じく、記憶の中にある「職場」なのである。
母は、戦中・戦後の貧困の中、不安定就労を余儀なくされていた父と二人で、必死で四人を育て上げた。山裾に密集する住宅街は、戦後に建てられたバラックだった。わが家は、五段に並ぶ四段目の長屋の中程にあった。軒を連ねひしめき合っていた八軒の住宅は、いずれも十坪に満たない狭小なものだったが、その八軒のそれぞれに親子がいて、総勢四十人ほどの大家族のような賑わいがあった。
庭と呼べる空間は何処にもなかったが、四人の食べ盛りの胃袋を満たすため、父は近くの寺の地所である山裾の傾斜地を借りて開墾し、たくさんの野菜を育てた。また二百羽以上の鶏を飼い、新鮮な卵や野菜を、ご近所に配った。お返しにと云って新鮮な魚介類やお惣菜が届いた。皆貧しかったが、貴重な食材を隣近所で分け合って食べていた。
荒れ地を開墾して石垣を築き、汗だくになって働く父の傍らで、遊んだり手伝いをしたりする日常があった。子どもたちにとって、すぐ裏手にある、標高五十メートルほどの里山は、格好の遊び場であり、「庭」だった。時には十数人という異年齢の子ども集団で、山の中に陣地を造って、敵と味方に分かれ、チャンバラごっこをしたり手製の弓を造り、矢や槍や石礫などを投げたり飛ばしたりして、戦争ごっこをしたものだ。私の左足に残る傷跡は、その時突き刺さった、投げ槍の痕である。私が二歳になったばかりの頃、崖の上にある広場で一緒に遊ぶうち、五、六メートルはあったその崖から転落して九死に一生を得たという出来事もあった。
また、子どもの足で三十分ほどのところに海があり、夏休みには毎日その海に潜ってサザエやアワビや魚を捕獲し、食料にすると言う子どもたちの漁撈生活の日常があった。
今思えば、一軒の長屋八世帯の住人が、共同体となり、大家族でもあった。子どもたちにとって裏山や近くの海は、共有の「庭」だった。五十年を経た今、父も、長屋の人々もとっくに他界したのだが、私の脳裏に焼き付いた、その「庭」は、今も鮮やかに蘇る。「原風景」としての「心の庭」なのである。
三十年ほど前に結婚した私達は、子どもが二人になった時、「この子らの原風景」として、広々とした自然を背景に、犬や猫や鶏などの生き物を飼い、世話をしたり、野菜や花を育てることが出来る「庭」が欲しいと言う思いをつのらせていた。私達にはその時、三十万円の預金しかなかったのだが、思い切って、二百坪あまりの土地に、建坪四十坪ほどの老朽家屋が立っていたこの物件を買い取った。そして開拓農民のような気概を抱きつつ、現在も住んでいるこの土地で、田舎暮らしを始めた。今から二十七年前のことである。
ここは、近くに二五世帯ほどの集落がある農村で、丘陵地帯に拡がる田園風景は、人口百四十万近い都市の一角とは思えない景観が残る。夜、わが家を訪れる友人たちは、「ここには闇がある」と妙に感動していた。その闇の中、初夏には蛍が飛び交い、幽玄の世界を演出し、七月になると啼き始める蜩の声が森厳さを醸し出す。また一年を通じて二十種余りの野鳥が訪れる。冬場には毎年二度三度と、十センチを超える積雪があり、白銀の世界となる。冬の星空の澄明さは息をのむほどである。近くの小学校に勤務していた私は、月に一度、誕生月の子どもたちを数人ずつわが家に招き誕生会をした。夏場には川遊びをしたり、近くの山に登ったりして遊んだ。冬は、近くの山から薪を皆で拾い集めてきて「庭」で焚き火し、焼き芋をして食べた。学校も子どもたちもこの地域も、まだ牧歌的な雰囲気を残していた。
私たちは、こちらに転居してさらに二人の子宝に恵まれた。妻の思いもあり、次女も次男も自宅分娩となった。一月の極寒の中ではあったが、四季咲きの真っ赤な薔薇が、凛として咲いた窓辺で、兄ちゃん、姉ちゃん、父ちゃん(私)、近所の人、親戚のおばちゃんたちが見守る中、庭に面した南向きの暖かい部屋で、元気な産声を上げた。今は亡きそのお産婆さんは、お花が大好きな方だった。その頃のわが家は、人間六人の他、犬七匹・猫二匹・兎十二羽・軍鶏や白色レグホン・チャボ二十七羽という大所帯になったこともある。そこでは様々なドラマが展開した。
放し飼いにしていた雌のチャボの姿が、数週間見当たらないと思って探していたら、なんと庭の隅っこでしっかりと卵を抱いて暖めていたのである。そして三週間の後見事に七羽の雛を孵した。その親鳥は、雨の中で、自分はずぶ濡れになりながらも、微動だにせず命がけで幼い命を守り抜いたのだ。孵化したその雛たちの可愛さは今も忘れられない。
また、道路に飛び出して轢死した猫を、おいおい泣きながら抱きしめて放さなかったわが子達の姿も思い出す。鶏小屋の中に、番いの兎を同居させていたら、一メートル以上の地下道を掘って「分娩室」を作り、十羽を超える子育てをしていたこともある。かわいい子兎が穴からちょろちょろ出てきて、初めて気がついた。やがて彼らは、その小屋から地下道を掘り進め大脱走していった。狭い兎小屋を飛び出して、広々とした野山に移住したのである。彼らは、隣の農家の苗代苗を食料にしたりもして、元の飼い主である私どもが謝って廻ったこともある。十数年を経た今も、彼らの子孫が野生化して近くに住んでいて、近所の牛舎付近でよく見かける。
ここでは、動物と人間が共生し、入り乱れて遊んでいた。卵の自給をし、有機無農薬の自家菜園造りにも挑戦した。一年中夫婦が忙しく動き回っていたため、子どもたちは普通の家庭のように日曜日に家族で行楽に出かけると言う経験は殆どしていない。遊び場は「庭」や「畑」や「田圃」であり、「山」や「川」だった。「あんたとこは、子どもを放し飼いにして大きくしたねえ。」と妻は友人から皮肉られていたそうである。
今でも妻は、幼かった次女がママゴトをしながら、長女に向かって次のように話しかけていた場面と声が忘れられないという。
「ねえ、ねえ、ふみちゃん、ここ好き?わたしここだーい好き!だあーてさぁ、春にはお花がいーっぱい咲いてさぁ、夏にはほたるがいーっぱいとんでさぁ、川で泳げるしさぁ、秋にはドングリとかいーっぱい拾えるしさぁ、冬には雪だるまを作ったり、雪合戦とかもできるもーん!」
四人の子どもたちはそれぞれに、二十年近くをわが家で過ごして巣立っていった。そして、まるで申し合わせたかのように、四人とも東京都内と横浜という大都会で暮らすこととなった。だが、この四人の子どもたちにもきっと、幼少期に育まれた「原風景」としての「心の庭」があることだろう。東京で時々集まって、「兄弟会」なる会合を持っているそうだ。
この地域は、平安時代に入植し、数世代に渡って広大な丘陵地帯を開墾して、この田園風景を築きあげていった先祖たちの労苦によって形成された。このように美しい風土をを作り上げるには、数百年という単位の時が必要とされる。それが、わずか戦後の数十年の間に、急速に過疎化・高齢化が進んだのである。全国で、お百姓さんが耕す事をやめ、田畑を捨て始めた。今、耕作放棄地が全農地の約二割、消滅の危機に瀕している集落がおよそ三千、限界集落がおよそ一万に達していると言う。自給率四割の現実は、まさに食糧危機である。田畑・山林の荒廃と共に、日本人の「心の庭」の荒廃も深刻である。
Gardenの語源であるゲルマン語には、「友人たちの為に造られた、喜びを分かち合う場所」とある。またギリシャ語では、「友人たちとともに楽しく過ごす空間としての庭」という意味があるそうだ。今子どもたちの多くは、耕すべき「心の庭」を持てずにいる。家族や友人と、楽しさや喜びを互いに分かち合う場所を持てずにいる。「携帯メール」という危うい繋がりが、子どもたちの居場所替わりとなっている現実がある。
今わが家には、認知症の母と、もうすぐ六歳になる元気な男の子が同居している。実親から虐待を受け、「家族」も「家庭」もなくしてしまった子どもである。四歳の時から養育里親として預かりもうすぐ二年が過ぎる。今では、私達をおとうさん、ママと呼び、お婆ちゃんと呼び、東京にいるお兄ちゃん、お姉ちゃんと呼んでいる。現代の貧困が作り出す「虐待」という暴力が、幼気なこの子から全てを奪い、命までも奪おうとしたのである。
九死に一生を得た彼は、わが家族と出会うことによって、新しい絆を作り始めたが、彼が受けた「心の傷」は未だに深く生々しい。頭を十針以上も縫うような大けがをしたにもかかわらず「ボクを産んだママはね・・・」とママをかばい、健気にも、実親との愉しい思い出を「創作」しようとするのである。
私の母は、妻が庭に咲く花を束ねた小さな花束を、大事そうに抱えながら、お迎えに来たデイサービスの車に乗って、毎朝うれしそうに出かけていく。保育園に通う「わが子」も団子虫や雨蛙やカナヘビを持って、元気に出かけていく。私たちは、この家が居場所のない子どもたちの「家」となり、ここに来て共に遊び、共に喜びを分かち合い、共に楽しいひとときが過ごせるような、共有の居場所を創り、その「心の庭」を耕して、たくさんの花を咲かせたい。力を合わせて!
著者の一人ということで、1冊贈呈していただきました。
自分の書いた文章が掲載されている本が、
全国の書店の店頭に並ぶのは、初めてのことです。
なかなかいい気分です。
懐と時間に余裕がございましたら、ご購読いただければ、幸いです。
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セブンアンドワイ http://www.7andy.jp/books/search_result/?fromKeywordSearch=true&kword_in=%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%BA%AD&ctgy=books&oop=on&submit.x=33&submit.y=8
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ぜひお勧めいたします。
「心の庭」を耕そう!
主題 家庭は『心の庭』
副題 『心の庭』を耕したい
木村 康三
論文の趣旨
本来、家庭というものは、和やかな団欒の場であってほしいものです。
ところが、昨今の家庭では、朝餉のにおいで目覚め、夕餉には賑やかな食事に
象徴される風景が減ってきているように感じられます。
団欒があれば、家庭のつながりも強く、生活の基本を理解するとともに
自己形成を促し、さらに目標に立ち向かう勇気を産み出すこともできるでしょう。
元気を取り戻すオアシスの役目を果たせるよう、家庭が「心の庭」となることを
切に願って、本年の課題としました。
財団法人 北野生涯教育振興会 論文募集係
本文
四人の男の子を育てた母は、今八三歳。アルツハイマー型認知症に苦しみながらも、「人間働かな呆ける。呆けたらおしまいよ。」とつぶやき、骨粗鬆症で大きく曲がった背中が痛い痛いと訴えながらも、デイサービスに週六日間通っている。「デイ」は、四十代から二十七年間働いた「職場」と同じく、記憶の中にある「職場」なのである。
母は、戦中・戦後の貧困の中、不安定就労を余儀なくされていた父と二人で、必死で四人を育て上げた。山裾に密集する住宅街は、戦後に建てられたバラックだった。わが家は、五段に並ぶ四段目の長屋の中程にあった。軒を連ねひしめき合っていた八軒の住宅は、いずれも十坪に満たない狭小なものだったが、その八軒のそれぞれに親子がいて、総勢四十人ほどの大家族のような賑わいがあった。
庭と呼べる空間は何処にもなかったが、四人の食べ盛りの胃袋を満たすため、父は近くの寺の地所である山裾の傾斜地を借りて開墾し、たくさんの野菜を育てた。また二百羽以上の鶏を飼い、新鮮な卵や野菜を、ご近所に配った。お返しにと云って新鮮な魚介類やお惣菜が届いた。皆貧しかったが、貴重な食材を隣近所で分け合って食べていた。
荒れ地を開墾して石垣を築き、汗だくになって働く父の傍らで、遊んだり手伝いをしたりする日常があった。子どもたちにとって、すぐ裏手にある、標高五十メートルほどの里山は、格好の遊び場であり、「庭」だった。時には十数人という異年齢の子ども集団で、山の中に陣地を造って、敵と味方に分かれ、チャンバラごっこをしたり手製の弓を造り、矢や槍や石礫などを投げたり飛ばしたりして、戦争ごっこをしたものだ。私の左足に残る傷跡は、その時突き刺さった、投げ槍の痕である。私が二歳になったばかりの頃、崖の上にある広場で一緒に遊ぶうち、五、六メートルはあったその崖から転落して九死に一生を得たという出来事もあった。
また、子どもの足で三十分ほどのところに海があり、夏休みには毎日その海に潜ってサザエやアワビや魚を捕獲し、食料にすると言う子どもたちの漁撈生活の日常があった。
今思えば、一軒の長屋八世帯の住人が、共同体となり、大家族でもあった。子どもたちにとって裏山や近くの海は、共有の「庭」だった。五十年を経た今、父も、長屋の人々もとっくに他界したのだが、私の脳裏に焼き付いた、その「庭」は、今も鮮やかに蘇る。「原風景」としての「心の庭」なのである。
三十年ほど前に結婚した私達は、子どもが二人になった時、「この子らの原風景」として、広々とした自然を背景に、犬や猫や鶏などの生き物を飼い、世話をしたり、野菜や花を育てることが出来る「庭」が欲しいと言う思いをつのらせていた。私達にはその時、三十万円の預金しかなかったのだが、思い切って、二百坪あまりの土地に、建坪四十坪ほどの老朽家屋が立っていたこの物件を買い取った。そして開拓農民のような気概を抱きつつ、現在も住んでいるこの土地で、田舎暮らしを始めた。今から二十七年前のことである。
ここは、近くに二五世帯ほどの集落がある農村で、丘陵地帯に拡がる田園風景は、人口百四十万近い都市の一角とは思えない景観が残る。夜、わが家を訪れる友人たちは、「ここには闇がある」と妙に感動していた。その闇の中、初夏には蛍が飛び交い、幽玄の世界を演出し、七月になると啼き始める蜩の声が森厳さを醸し出す。また一年を通じて二十種余りの野鳥が訪れる。冬場には毎年二度三度と、十センチを超える積雪があり、白銀の世界となる。冬の星空の澄明さは息をのむほどである。近くの小学校に勤務していた私は、月に一度、誕生月の子どもたちを数人ずつわが家に招き誕生会をした。夏場には川遊びをしたり、近くの山に登ったりして遊んだ。冬は、近くの山から薪を皆で拾い集めてきて「庭」で焚き火し、焼き芋をして食べた。学校も子どもたちもこの地域も、まだ牧歌的な雰囲気を残していた。
私たちは、こちらに転居してさらに二人の子宝に恵まれた。妻の思いもあり、次女も次男も自宅分娩となった。一月の極寒の中ではあったが、四季咲きの真っ赤な薔薇が、凛として咲いた窓辺で、兄ちゃん、姉ちゃん、父ちゃん(私)、近所の人、親戚のおばちゃんたちが見守る中、庭に面した南向きの暖かい部屋で、元気な産声を上げた。今は亡きそのお産婆さんは、お花が大好きな方だった。その頃のわが家は、人間六人の他、犬七匹・猫二匹・兎十二羽・軍鶏や白色レグホン・チャボ二十七羽という大所帯になったこともある。そこでは様々なドラマが展開した。
放し飼いにしていた雌のチャボの姿が、数週間見当たらないと思って探していたら、なんと庭の隅っこでしっかりと卵を抱いて暖めていたのである。そして三週間の後見事に七羽の雛を孵した。その親鳥は、雨の中で、自分はずぶ濡れになりながらも、微動だにせず命がけで幼い命を守り抜いたのだ。孵化したその雛たちの可愛さは今も忘れられない。
また、道路に飛び出して轢死した猫を、おいおい泣きながら抱きしめて放さなかったわが子達の姿も思い出す。鶏小屋の中に、番いの兎を同居させていたら、一メートル以上の地下道を掘って「分娩室」を作り、十羽を超える子育てをしていたこともある。かわいい子兎が穴からちょろちょろ出てきて、初めて気がついた。やがて彼らは、その小屋から地下道を掘り進め大脱走していった。狭い兎小屋を飛び出して、広々とした野山に移住したのである。彼らは、隣の農家の苗代苗を食料にしたりもして、元の飼い主である私どもが謝って廻ったこともある。十数年を経た今も、彼らの子孫が野生化して近くに住んでいて、近所の牛舎付近でよく見かける。
ここでは、動物と人間が共生し、入り乱れて遊んでいた。卵の自給をし、有機無農薬の自家菜園造りにも挑戦した。一年中夫婦が忙しく動き回っていたため、子どもたちは普通の家庭のように日曜日に家族で行楽に出かけると言う経験は殆どしていない。遊び場は「庭」や「畑」や「田圃」であり、「山」や「川」だった。「あんたとこは、子どもを放し飼いにして大きくしたねえ。」と妻は友人から皮肉られていたそうである。
今でも妻は、幼かった次女がママゴトをしながら、長女に向かって次のように話しかけていた場面と声が忘れられないという。
「ねえ、ねえ、ふみちゃん、ここ好き?わたしここだーい好き!だあーてさぁ、春にはお花がいーっぱい咲いてさぁ、夏にはほたるがいーっぱいとんでさぁ、川で泳げるしさぁ、秋にはドングリとかいーっぱい拾えるしさぁ、冬には雪だるまを作ったり、雪合戦とかもできるもーん!」
四人の子どもたちはそれぞれに、二十年近くをわが家で過ごして巣立っていった。そして、まるで申し合わせたかのように、四人とも東京都内と横浜という大都会で暮らすこととなった。だが、この四人の子どもたちにもきっと、幼少期に育まれた「原風景」としての「心の庭」があることだろう。東京で時々集まって、「兄弟会」なる会合を持っているそうだ。
この地域は、平安時代に入植し、数世代に渡って広大な丘陵地帯を開墾して、この田園風景を築きあげていった先祖たちの労苦によって形成された。このように美しい風土をを作り上げるには、数百年という単位の時が必要とされる。それが、わずか戦後の数十年の間に、急速に過疎化・高齢化が進んだのである。全国で、お百姓さんが耕す事をやめ、田畑を捨て始めた。今、耕作放棄地が全農地の約二割、消滅の危機に瀕している集落がおよそ三千、限界集落がおよそ一万に達していると言う。自給率四割の現実は、まさに食糧危機である。田畑・山林の荒廃と共に、日本人の「心の庭」の荒廃も深刻である。
Gardenの語源であるゲルマン語には、「友人たちの為に造られた、喜びを分かち合う場所」とある。またギリシャ語では、「友人たちとともに楽しく過ごす空間としての庭」という意味があるそうだ。今子どもたちの多くは、耕すべき「心の庭」を持てずにいる。家族や友人と、楽しさや喜びを互いに分かち合う場所を持てずにいる。「携帯メール」という危うい繋がりが、子どもたちの居場所替わりとなっている現実がある。
今わが家には、認知症の母と、もうすぐ六歳になる元気な男の子が同居している。実親から虐待を受け、「家族」も「家庭」もなくしてしまった子どもである。四歳の時から養育里親として預かりもうすぐ二年が過ぎる。今では、私達をおとうさん、ママと呼び、お婆ちゃんと呼び、東京にいるお兄ちゃん、お姉ちゃんと呼んでいる。現代の貧困が作り出す「虐待」という暴力が、幼気なこの子から全てを奪い、命までも奪おうとしたのである。
九死に一生を得た彼は、わが家族と出会うことによって、新しい絆を作り始めたが、彼が受けた「心の傷」は未だに深く生々しい。頭を十針以上も縫うような大けがをしたにもかかわらず「ボクを産んだママはね・・・」とママをかばい、健気にも、実親との愉しい思い出を「創作」しようとするのである。
私の母は、妻が庭に咲く花を束ねた小さな花束を、大事そうに抱えながら、お迎えに来たデイサービスの車に乗って、毎朝うれしそうに出かけていく。保育園に通う「わが子」も団子虫や雨蛙やカナヘビを持って、元気に出かけていく。私たちは、この家が居場所のない子どもたちの「家」となり、ここに来て共に遊び、共に喜びを分かち合い、共に楽しいひとときが過ごせるような、共有の居場所を創り、その「心の庭」を耕して、たくさんの花を咲かせたい。力を合わせて!































































