「心の庭」を耕したい!

ぎょうせい出版から『家庭は心の庭』が出版されました。
著者の一人ということで、1冊贈呈していただきました。
自分の書いた文章が掲載されている本が、
全国の書店の店頭に並ぶのは、初めてのことです。
なかなかいい気分です。
懐と時間に余裕がございましたら、ご購読いただければ、幸いです。

  オンライン書店;ビーケーワン  http://www.bk1.jp/product/03061137
  セブンアンドワイ         http://www.7andy.jp/books/search_result/?fromKeywordSearch=true&kword_in=%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E3%81%AF%E5%BF%83%E3%81%AE%E5%BA%AD&ctgy=books&oop=on&submit.x=33&submit.y=8

のどちらを利用されても、送料は無料です。とりあえず私の文章だけを読もうと思ってくださった方は、このブログで読めますので、ご購入の必要はありませんが、出来ましたら先に紹介致しました1席の「おすしやさん」の文章も
ぜひお勧めいたします。

  「心の庭」を耕そう! 

主題   家庭は『心の庭』
副題     『心の庭』を耕したい
木村 康三
 論文の趣旨

本来、家庭というものは、和やかな団欒の場であってほしいものです。
 ところが、昨今の家庭では、朝餉のにおいで目覚め、夕餉には賑やかな食事に
象徴される風景が減ってきているように感じられます。
 団欒があれば、家庭のつながりも強く、生活の基本を理解するとともに
自己形成を促し、さらに目標に立ち向かう勇気を産み出すこともできるでしょう。
元気を取り戻すオアシスの役目を果たせるよう、家庭が「心の庭」となることを
切に願って、本年の課題としました。

                    財団法人 北野生涯教育振興会 論文募集係

本文


 四人の男の子を育てた母は、今八三歳。アルツハイマー型認知症に苦しみながらも、「人間働かな呆ける。呆けたらおしまいよ。」とつぶやき、骨粗鬆症で大きく曲がった背中が痛い痛いと訴えながらも、デイサービスに週六日間通っている。「デイ」は、四十代から二十七年間働いた「職場」と同じく、記憶の中にある「職場」なのである。
母は、戦中・戦後の貧困の中、不安定就労を余儀なくされていた父と二人で、必死で四人を育て上げた。山裾に密集する住宅街は、戦後に建てられたバラックだった。わが家は、五段に並ぶ四段目の長屋の中程にあった。軒を連ねひしめき合っていた八軒の住宅は、いずれも十坪に満たない狭小なものだったが、その八軒のそれぞれに親子がいて、総勢四十人ほどの大家族のような賑わいがあった。
 庭と呼べる空間は何処にもなかったが、四人の食べ盛りの胃袋を満たすため、父は近くの寺の地所である山裾の傾斜地を借りて開墾し、たくさんの野菜を育てた。また二百羽以上の鶏を飼い、新鮮な卵や野菜を、ご近所に配った。お返しにと云って新鮮な魚介類やお惣菜が届いた。皆貧しかったが、貴重な食材を隣近所で分け合って食べていた。
 荒れ地を開墾して石垣を築き、汗だくになって働く父の傍らで、遊んだり手伝いをしたりする日常があった。子どもたちにとって、すぐ裏手にある、標高五十メートルほどの里山は、格好の遊び場であり、「庭」だった。時には十数人という異年齢の子ども集団で、山の中に陣地を造って、敵と味方に分かれ、チャンバラごっこをしたり手製の弓を造り、矢や槍や石礫などを投げたり飛ばしたりして、戦争ごっこをしたものだ。私の左足に残る傷跡は、その時突き刺さった、投げ槍の痕である。私が二歳になったばかりの頃、崖の上にある広場で一緒に遊ぶうち、五、六メートルはあったその崖から転落して九死に一生を得たという出来事もあった。
 また、子どもの足で三十分ほどのところに海があり、夏休みには毎日その海に潜ってサザエやアワビや魚を捕獲し、食料にすると言う子どもたちの漁撈生活の日常があった。
 今思えば、一軒の長屋八世帯の住人が、共同体となり、大家族でもあった。子どもたちにとって裏山や近くの海は、共有の「庭」だった。五十年を経た今、父も、長屋の人々もとっくに他界したのだが、私の脳裏に焼き付いた、その「庭」は、今も鮮やかに蘇る。「原風景」としての「心の庭」なのである。

 三十年ほど前に結婚した私達は、子どもが二人になった時、「この子らの原風景」として、広々とした自然を背景に、犬や猫や鶏などの生き物を飼い、世話をしたり、野菜や花を育てることが出来る「庭」が欲しいと言う思いをつのらせていた。私達にはその時、三十万円の預金しかなかったのだが、思い切って、二百坪あまりの土地に、建坪四十坪ほどの老朽家屋が立っていたこの物件を買い取った。そして開拓農民のような気概を抱きつつ、現在も住んでいるこの土地で、田舎暮らしを始めた。今から二十七年前のことである。
 ここは、近くに二五世帯ほどの集落がある農村で、丘陵地帯に拡がる田園風景は、人口百四十万近い都市の一角とは思えない景観が残る。夜、わが家を訪れる友人たちは、「ここには闇がある」と妙に感動していた。その闇の中、初夏には蛍が飛び交い、幽玄の世界を演出し、七月になると啼き始める蜩の声が森厳さを醸し出す。また一年を通じて二十種余りの野鳥が訪れる。冬場には毎年二度三度と、十センチを超える積雪があり、白銀の世界となる。冬の星空の澄明さは息をのむほどである。近くの小学校に勤務していた私は、月に一度、誕生月の子どもたちを数人ずつわが家に招き誕生会をした。夏場には川遊びをしたり、近くの山に登ったりして遊んだ。冬は、近くの山から薪を皆で拾い集めてきて「庭」で焚き火し、焼き芋をして食べた。学校も子どもたちもこの地域も、まだ牧歌的な雰囲気を残していた。
 私たちは、こちらに転居してさらに二人の子宝に恵まれた。妻の思いもあり、次女も次男も自宅分娩となった。一月の極寒の中ではあったが、四季咲きの真っ赤な薔薇が、凛として咲いた窓辺で、兄ちゃん、姉ちゃん、父ちゃん(私)、近所の人、親戚のおばちゃんたちが見守る中、庭に面した南向きの暖かい部屋で、元気な産声を上げた。今は亡きそのお産婆さんは、お花が大好きな方だった。その頃のわが家は、人間六人の他、犬七匹・猫二匹・兎十二羽・軍鶏や白色レグホン・チャボ二十七羽という大所帯になったこともある。そこでは様々なドラマが展開した。
放し飼いにしていた雌のチャボの姿が、数週間見当たらないと思って探していたら、なんと庭の隅っこでしっかりと卵を抱いて暖めていたのである。そして三週間の後見事に七羽の雛を孵した。その親鳥は、雨の中で、自分はずぶ濡れになりながらも、微動だにせず命がけで幼い命を守り抜いたのだ。孵化したその雛たちの可愛さは今も忘れられない。
 また、道路に飛び出して轢死した猫を、おいおい泣きながら抱きしめて放さなかったわが子達の姿も思い出す。鶏小屋の中に、番いの兎を同居させていたら、一メートル以上の地下道を掘って「分娩室」を作り、十羽を超える子育てをしていたこともある。かわいい子兎が穴からちょろちょろ出てきて、初めて気がついた。やがて彼らは、その小屋から地下道を掘り進め大脱走していった。狭い兎小屋を飛び出して、広々とした野山に移住したのである。彼らは、隣の農家の苗代苗を食料にしたりもして、元の飼い主である私どもが謝って廻ったこともある。十数年を経た今も、彼らの子孫が野生化して近くに住んでいて、近所の牛舎付近でよく見かける。
 ここでは、動物と人間が共生し、入り乱れて遊んでいた。卵の自給をし、有機無農薬の自家菜園造りにも挑戦した。一年中夫婦が忙しく動き回っていたため、子どもたちは普通の家庭のように日曜日に家族で行楽に出かけると言う経験は殆どしていない。遊び場は「庭」や「畑」や「田圃」であり、「山」や「川」だった。「あんたとこは、子どもを放し飼いにして大きくしたねえ。」と妻は友人から皮肉られていたそうである。
今でも妻は、幼かった次女がママゴトをしながら、長女に向かって次のように話しかけていた場面と声が忘れられないという。
 「ねえ、ねえ、ふみちゃん、ここ好き?わたしここだーい好き!だあーてさぁ、春にはお花がいーっぱい咲いてさぁ、夏にはほたるがいーっぱいとんでさぁ、川で泳げるしさぁ、秋にはドングリとかいーっぱい拾えるしさぁ、冬には雪だるまを作ったり、雪合戦とかもできるもーん!」
 四人の子どもたちはそれぞれに、二十年近くをわが家で過ごして巣立っていった。そして、まるで申し合わせたかのように、四人とも東京都内と横浜という大都会で暮らすこととなった。だが、この四人の子どもたちにもきっと、幼少期に育まれた「原風景」としての「心の庭」があることだろう。東京で時々集まって、「兄弟会」なる会合を持っているそうだ。
 この地域は、平安時代に入植し、数世代に渡って広大な丘陵地帯を開墾して、この田園風景を築きあげていった先祖たちの労苦によって形成された。このように美しい風土をを作り上げるには、数百年という単位の時が必要とされる。それが、わずか戦後の数十年の間に、急速に過疎化・高齢化が進んだのである。全国で、お百姓さんが耕す事をやめ、田畑を捨て始めた。今、耕作放棄地が全農地の約二割、消滅の危機に瀕している集落がおよそ三千、限界集落がおよそ一万に達していると言う。自給率四割の現実は、まさに食糧危機である。田畑・山林の荒廃と共に、日本人の「心の庭」の荒廃も深刻である。
 Gardenの語源であるゲルマン語には、「友人たちの為に造られた、喜びを分かち合う場所」とある。またギリシャ語では、「友人たちとともに楽しく過ごす空間としての庭」という意味があるそうだ。今子どもたちの多くは、耕すべき「心の庭」を持てずにいる。家族や友人と、楽しさや喜びを互いに分かち合う場所を持てずにいる。「携帯メール」という危うい繋がりが、子どもたちの居場所替わりとなっている現実がある。
 今わが家には、認知症の母と、もうすぐ六歳になる元気な男の子が同居している。実親から虐待を受け、「家族」も「家庭」もなくしてしまった子どもである。四歳の時から養育里親として預かりもうすぐ二年が過ぎる。今では、私達をおとうさん、ママと呼び、お婆ちゃんと呼び、東京にいるお兄ちゃん、お姉ちゃんと呼んでいる。現代の貧困が作り出す「虐待」という暴力が、幼気なこの子から全てを奪い、命までも奪おうとしたのである。
 九死に一生を得た彼は、わが家族と出会うことによって、新しい絆を作り始めたが、彼が受けた「心の傷」は未だに深く生々しい。頭を十針以上も縫うような大けがをしたにもかかわらず「ボクを産んだママはね・・・」とママをかばい、健気にも、実親との愉しい思い出を「創作」しようとするのである。
 私の母は、妻が庭に咲く花を束ねた小さな花束を、大事そうに抱えながら、お迎えに来たデイサービスの車に乗って、毎朝うれしそうに出かけていく。保育園に通う「わが子」も団子虫や雨蛙やカナヘビを持って、元気に出かけていく。私たちは、この家が居場所のない子どもたちの「家」となり、ここに来て共に遊び、共に喜びを分かち合い、共に楽しいひとときが過ごせるような、共有の居場所を創り、その「心の庭」を耕して、たくさんの花を咲かせたい。力を合わせて!


  

庭で焼き芋

人里はなれた我が家の庭では、焚き火が出来る。
法的には禁止されているのだが、ここらあたりの農家が、
野焼きを全てやめてしまうと、雑草や剪定屑処理のため、
年間数千万円の税金が必要になってくる。
だからある程度は黙認される。

ということで、可愛いアーティストたちの“ゲイジュツ”活動が終わった後に
残念だが、お片づけをしてもらい、そこで焚き火をして焼き芋を焼いた。
二人とも、美味しそうに食べていた。
マジ君の親友のカズ君は、我が家よりも都会に住んでいるためか
上品に、スプーンを使って食べていた。


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可愛いアーティスト

庭に実に様々のガラクタがある。
それらの全てが、彼らにとっては、“ゲイジュツ”の素材となる。
ワクワクしながら、“ゲイジュツ”遊びに熱中する。
規制されないので、生き生きと活動している。
2時間近くかかって巨大なオブジェが完成した。

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ジョウビタキ

4日前から、我が家に、可愛らしい野鳥が訪れている。
親鳥、雛のジョウビタキ(雌)のようだ。
朝、雨戸を開けると、待っていたかのように
ガラス戸にぶつかってくる。
一日10時間、何百回となく頭から突撃してくる。
それが実に、今日で4日間続いている。

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家に入りたいのかと、ガラス戸をあけても決して入って来ようとはしない。
近づくとぱっと逃げていくのだが、直ぐにやってくる。
野鳥の習性に詳しい方に教えていただきたい。

私の推測では、人間と遊んでいるようにしか思えないのだが・・・
何か特別な意味があるとすれば、何だろう?
いずれにせよ、興味深い行動である。

青桐の秋

移植して25年ほどたつ青桐の木が2本ある。
昔は、娘が嫁に行くときに30年物の桐の木で箪笥を作ったということだが、
とてもその大きさにはなりそうにない。
だが、毎年この時季に黄葉し、やがて葉を落として、
実にすっきりとした美しい形象で冬を迎える
人の一生も斯くあれと願う。


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良縁に恵まれて!

1泊2日の今回の旅の最大の目的は
私どもの次女がこの度、「良縁」に恵まれて
来春、結婚の運びと成ったこと、その婚儀の一環として
双方の両親の初顔合わせでした。

こちらの希望で形式的な「結納の儀」は、省かせていただき
替わりに、結婚式・披露宴前に顔合わせの昼食会を
お膳立てしていただいた。

『なだ万料亭 御殿山』-ご案内いただいたその料亭は
明治の文豪「鴎外」や「漱石」が、その味に魅せられたという
由緒ある料亭だった。
場所は、「御殿山ガーデン ホテル ラフォーレ東京(26階)」
レインボーブリッジや東京湾を一望できる絶景の中で
舌鼓を打ちながら、歓談させていただいた。

マジ君も一緒だったが、お子様用に準備していただいた「懐石」には
眼もくれず、先方のご両親からのプレゼントの
電池で動き、ロボットにも変身する“ハイブリッドカー”に熱中していた。

既に1年以上前から、次女のフィアンセが幾度となく我が家に来て
大好きな兄ちゃんとしてすっかり馴染んできたマジ君だったので
先方のご両親に対しても、屈託ない(厚かましい)態度で接していた。

なんという素敵なご両親だろう。
初対面でありながら、旧知の輩であるかのような親しみを感じ
いつまでもおしゃべりしていたい様な、気さくなご夫婦であった。
なんという有り難い出会いだろう
なんという良縁であろう
不思議なことである。

表彰式&祝賀会

ホテルオオクラ2階の「清流の間」で表彰式
「エメラルドルーム」で祝賀会
それはもう、私にとっては場違いの
戸惑いを覚えるような豪華絢爛な場所でした。

財団法人北野生涯教育振興会  
http://homepage1.nifty.com/kitanofoundation/

この晴れがましい場所で9人の入選者が
60人のお歴々に囲まれて、祝福を受けたのです。
そのお歴々たるや、錚々たるメンバーでした。
会社の社長や取締役や重役が過半数を占め
あとの半数近くが、大学教授や出版関係や行政関係者
といった感じです。

表彰式の後の祝賀会で、ある有名な歌手や東京商工会の会頭や
経営評論家など数名の方々と親しくお話する機会が会ったのですが
強く印象に残った方は、1席に入賞された元銀座のおすし屋さんでした。

その方と帰り道電車で渋谷までご一緒させていただきながら
お聞きしたお話が、何よりの収穫であり、大きな励みになりました。

離れ業!

(財)北野生涯教育振興会が主催する公募「家庭は『心の庭』」
というテーマの論文に、5月末に応募していました。

8月に、3席に入賞したとの知らせを受け、
11月7日の表彰式に参加しようと3ヶ月前から準備してきたのです。

会場は、東京の虎ノ門にある「ホテルオオクラ東京」です。
我々庶民には一生に一度泊まれるかどうか、というホテルです。
最近、麻生総理が一日の政務のあとに夕食をとるということで
新聞やテレビのニュースで脚光を浴びている
ホテルのうちの一つです。

あいにく2時過ぎから5時過ぎという時間帯だったので
麻生総理にはお会いできなかったのですが、
日本のセレブはこんな豪華なホテルの中に事務所を構え、
取り巻きに囲まれながら食事をするのか、と、良い勉強になりました。

勿論、このホテルに泊まれるはずもありません

3席入賞者の賞金は、往復の飛行機代よりも少ない額でしたが
支給されたその一人分の交通費で、マジ君と夫婦の3人の
格安航空券のチケット代に換えるという庶民の知恵を生かし、

東京近郊に住む四人の子どもたち、私の兄の家族、
次女が来春めでたく結婚する相手のご家族との
「昼食会」という結納の儀を略した婚儀、という
一生のうちに何度かしかないようなおめでたい行事を2日間で
行ってしまう、という「離れ業」をやり遂げてしまったのです。

“母の入所”

自宅での介護が、限界に近づき、
1ヶ月ほど前に申し込んでいた老健施設へ入所してもらうことになった。

「週に6日間、デイに通えるくらい元気なのになぜ?」
と思われるかもしれない。

決め手は、精神科の主治医の言葉だった。
「おばあちゃん、頑張りすぎですよ!」
確かにそうだった。

母にしてみれば、デイケアセンターに三年間、殆ど休むことなく通い続けたのは、
そこで働いている、と思い込んでいたのだった。
だから、少しくらいきつくても、身体に鞭打って「出勤」したのだった。
その精励振りは、ある意味“驚異的”だった。

家族とは違う多くのスタッフとの会話や、ドライブや買い物やカラオケなど
デイで過ごす時間の楽しさもあって、通い続けることが出来た。
だから、心身ともに限界の状態まで我慢を重ねていたのだと思う。

アルツハイマー型認知症の進行に、視力の低下も加わって
幻覚や幻聴が次第に増幅し、職場で我慢していた反動から、
自宅に帰ると、「壁や床や天井に虫がべったり張り付いている」
から「こんなところでは寝られんよ」とか「ご飯を食べんよ」とか
叫びまくる毎日となっていた。

深夜から明け方まで、何度も起こされ、眠れない毎日だった。
せめてデイに言ってくれている時間にと、仮眠を貪る日々が続いた。
母と同様、私も限界に近づいていた。

幸いに車で5分くらいの老健施設に入所が決まった。
「新しい職場?」に行くことになったと勘違いした母は、
その朝、うきうきして、「鉛筆はいらんのかね?」と
受験生のような気分でいた。

ところが実際にその建物に到着し、車から降りようとするときになって
「あんたたちは、私を騙したね!」と猛烈に腹を立て、
説得に1時間近くを要することとなった。

気になりながらも一晩が過ぎ、次の日(11月5日)の午後面会に行くと
すっかり穏やかな表情と、「まあ、ひさしぶりやねー!」と笑顔が迎えた。
早くもおしゃべり友だちが出来たようで、すっかり新しい環境に
馴染んでしまった感があった。少なくとも、その時は・・・

哲学するカエル PartⅡ

驚いたことにまだあいつがいる。

前回紹介したのが、9月2日だからあれから既に2ヶ月以上になる。
既に5ヶ月くらい、同じ場所(物干し竿【周辺】)にいるのだ。
感激したので、今日はスーパーマクロのアップで撮影させてもらった。
またまた驚いたことに、カメラが5センチくらいまで近づいても悠然と構えている。
まるでポーズでもとっているかのようだ!
遅くとも10月には冬眠するものと思っていたが、
ひょっとして、冬眠する家がないホームレスか
働かないために、食料にありつけないでいるニートなのかも
と思ってしまうが・・・それにしては十分に肥えている。


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偶然に見つけた一茶の句に
   
ゆうぜんとして 山を見る カエルかな

とあった。どうも お見逸れいたしました!

薪ストーブに火を入れました!

早朝の室温が17度に下がっていたので、今シーズンも薪ストーブの始まりです。
煙突掃除は、1週間ほど前に、初めの薪の準備は3日ほど前に済ませていました。
まだ暖房がないと我慢できない寒さではありませんが、
心が寒いとき、やはり、この炎の暖かさはありがたいものです

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ヤマカガシをとらえました!

我が家の庭には、たくさんのカエルがすんでいて
それを捕食しようと、蛇もたくさんすんでいます。
でもこの季節までうろうろしてると思いませんでした。

冬眠前に、しっかり食べておこうと、カエルを探していたのでししょうか。
その蛇は、紛れもなく「ヤマカガシ」でした。我が家の庭には
昔から蛇が住み着いていて、いわば彼らは私たちの先住者なのです。
青大将・シマヘビ・ヤマカガシ・ジムグリの4種類が中心ですが、時には近くにマムシも出没します。
ところが、ヤマカガシが毒蛇だと知ったのは、比較的最近のことで、
青大将やシマヘビと同じように平気で捕まえていたのです。

庭の中をうろつかれると、子どもに危険が及んだときに、と思い
危機管理のために捕まえて、川に流した。

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形態
全長は100cmほどで、大きいものは140cmに達する(最大記録は1.5mちょっと)。体色は、褐色の地に赤と黒の斑紋が交互に並んでいる。関東の個体では斑紋がはっきりしているのに対し、関西の個体ではややぼんやりとしている。


奥歯の根元にデュベルノワ腺 (Duvernoy's gland) と呼ばれる毒腺を持つため、深く噛まれると危険(死亡例もある)。他のナミヘビ科の有毒種同様、口腔の後方に毒牙を有する後牙類(後牙蛇)である。

毒は出血毒であるが、おもに血小板に作用してこれを破壊する性質であるため、クサリヘビ科の出血毒とは違い、激しい痛みや腫れはあまり起こらない。しかし、噛まれてから20-30分後ぐらいから、血液の中で化学反応が起こり、血小板が分解されていく。そのため、全身の血液が凝固能力を失ってしまい、全身に及ぶ皮下出血、歯茎からの出血、内臓出血、腎機能障害、血便、血尿などが起こり、最悪の場合は脳内出血が起こる。一説には、その毒の強さはハブの10倍とも言われる。

また、頸部にも奥歯とは全く違う毒を出す頸腺と呼ばれる別の毒腺があり、危険が迫ると相手の目を狙って毒液を飛ばす。これが目に入ると激しい痛みを生じ、最悪の場合失明もありうる。近年の研究により、この頸部の毒は、餌であるヒキガエルの持つ毒を貯蓄して使用していることが明らかになった。

頚腺の毒液の存在が古くから認識されていたとはいえ、毒腺が奥歯にあるため、爬虫類研究者の間でも毒蛇であることはあまり認識されていなかったが、1972年に中学生が噛まれて死亡する事故が起きてから、毒蛇として認識されるようになってきた。このため、むしろ山歩きや山仕事に慣れ経験則を重視する年配者において知見が改まっておらず、従ってヤマカガシを毒蛇と認識せず注意や警戒を呼びかけてもせせら笑う例すら見受けられるなど、土地の年配者の判断がアテにならない事もあり、注意を必要とする状況もあり得る。その後、1984年にも死亡事故が起きている。こちらも被害者は中学生で、どちらの事故もヘビを捕まえようとして無造作に手を出して噛まれている。ヤマカガシは本来、大人しいヘビなので、手を出したりしない限り噛まれることはない。(死亡例は4例、重症例は30

生態
ヒキガエルを捕らえた写真カガシとは日本の古語で「蛇」を意味する。ヤマカガシという名前は、「山の蛇」の意味である。しかし実際には平地に多く、山地でも標高の低い場所に多い。本種はその中でも水辺、農耕地に住む。驚くと頸部を広げて威嚇する。それでも相手が怯まない場合、仰向けになり擬死行動を行う。それでも相手が怯まない場合は噛みついたり、相手に毒腺のある頸部を叩きつける。性質は一般に大人しいとされているが、中には非常に攻撃的な個体もいる。

食性は動物食でカエル、魚類等を食べる。田んぼの土中に頭を入れて、土中に潜ったトノサマガエルなども捕食する。他の蛇からは嫌われる有毒のヒキガエルをも食べてしまう。飼育下では、ドジョウや金魚の捕食例もある。また他のヘビとは違い、ネズミは食べない。捕食方法は、獲物に噛み付いて、そのままぐいぐいと飲み込む。ヘビが動物を飲むときは大概頭から飲み込むものだが、本種がカエルを飲むときは、後ろから飲み込むことが多い。そのため口からカエルの頭だけが出ているという場面に出くわすことがある。

繁殖形態は卵生で、1回に2-43個の卵を産む。

天敵
天敵は人間以外では、猛禽類、カラス、イタチ、タヌキ、テンなどであるが、頚部の毒腺の存在により、撃退してしまうこともある。また、本種と生息域が重なり、蛇食性の強いシマヘビも、本種にとっては、危険な天敵である。

人間との関係
本種はアオダイショウ・シマヘビとともに、日本本土で最もよく見かけるヘビの一種である。同じ毒蛇であるニホンマムシと比べても生息数は多く、また人との関わりも深い。これは本種がカエル食であるため、日本人の農業、特に水田の発達と共にヒキガエルや他のカエルの繁殖地が増加していき、それに伴って本種も発展していったものと思われる。そのため、農村地域では、昔から田んぼの友達として、住民にはおなじみの存在であった。

しかし近年は、水田の減少、そしてそれに伴うカエルの減少と共に、個体数は減少しているようである。特に都市部では、本種を見かけることは極めてまれである。                (『ウィキペディア』より引用)

マジ君、熱を出す!(「支離滅裂!」のマジパパ!)

マジ君が通う保育園の保母(保育士・・・この言葉は未だにしっくり来ないのですが・・・)さんたちが、
本当に有難いことなのですが、マジ君のことを、時々更新しているマイブログのファンになってくださって、
わざわざプリントアウトまでしていただいて、パソコンを開くことの少ない方にまで、そのプリントを配ってくださっていると、お聞きして、すっかり感激して、毎日更新しなければ、と思ったものの、
我が家は、私が無職(元教員を55歳で早期退職したもんで・・・)で、生活費は、専ら女房の稼ぎに頼った、
紐的生活者なのです。(近所の友だちと、しこたま飲んで、ほろ酔い加減でキーボードをたたいているために、
支離滅裂な文章になっていますが、何を言いたいのか、わかっていただけるものと信じて書いていますが、・・・

最近、9月から約二ヶ月、毎晩のようにわが母親の「オムツ」ならぬ「紙パンツ」を夜中に何度か起こされて、
文句言いながらも換えてやる日常が続いているのです。
84歳になるわが母は、16歳で嫁入りし、17歳で長男を生み、四人の男の子を戦中・戦後育て上げた昭和の生き証人なのですが、今の世の中、その戦争体験に、じっくりと耳傾けようという団塊の世代すら、少数派になってしまっていると、聞いています。聞き手がいないと埋もれて消えてしまうしかない歴史(体験)を、戦後生まれの団塊が、いかに団塊ジュニアに受け継いでいくかということが、今の日本の大きな課題の一つだと思います。
そう言うスタンスを持ちながらも、母の介護に疲れてしまうということが、現実に起こってしまったために、
ブログよりも、マジ君と母の世話を優先せざるを得なかった2ヶ月間でした。

マジ君が熱を出して、お迎えに来てくれという連絡が、昨日のお昼ごろ妻にあったのですが、妻は3時過ぎから職場に出かけるという時間だったので、お医者さんにかかった後のマジ君を引き受けたものの、
マジ君の病状とお構い無しに、母の「狂い」と付きあわざるを得ないという、今まで未経験の事態が容赦なく襲ってくるのです。
(すいません・・・酔った勢いのまま書いているため、かなりの誇張があります。そこを値引きして読んでもらわないと・・・素面になったときに・・・恥ずかしい思いをしてしまいそう・・・・)

久々に、気の置けない「村の友だち」が、今や、全面的にマジ君を「村の子ども」と同じように引き受けて下さるとの
熱き思いを、打ち明けてもらい、ついついビールを飲みすぎてしまいました。

9時半ごろ帰宅して、母の部屋に入って声をかけると、やはりパンツをはかないままでいたので、
最近は、お互いに抵抗感も無くなった「母のむつき(オムツ)を換えるまで」(現・厚生労働大臣の著書)という作業を
し終えると、母が涙ぐんでいるのです。
子どもが高齢化しても、母親は、いつまでも母親でい続ける、それが大正生まれ、昭和一桁生まれの母、だとすれば、現在の母親は、かなり変化してきているようで、子どもを、将来のこの国のよき担い手として育てようという、
私利私欲を離れた思い、というものが薄らいできているといわざるを得ません。

マジ君、という現代的な、過酷な境遇を負わされた、幼子に対して、昭和の母が、アルツハイマーの母が寄せる思いは、この世に普遍的に存在する「母性」としか言い様のない思いや願いそのものなのです。
どんなに呆けてしまっても、「血筋」が違うといいながらも、親の不遇な境遇の犠牲になって、虐待を受けてきた幼子への思いは、人類の母としての普遍的な思いそのものなのです。

マジ君に、恐れ入ったのは、その「おばあちゃん」と一個の人間として、対等に付き合っていることです。
「おばあちゃん」という彼にとって初めて出会う「宇宙人」のような不思議な存在と
きちんと向かい合って付き合っていることです。
この世のしがらみや、偏見や、私利私欲にとらわれてしまう「大人」である自分たちとまったく違った
澄み切った付き合いをしていることに、驚きと畏敬の念を抱かざるを得ません。
子どもが持っているこの様な「感性」こそが、「未来」を切り拓く力であり、未来そのものだと思います。
たとえば彼は、保育園に出かけるときに必ず、「おばあちゃんをたのんだよ!」といって出かけます。
それは、家にいるときは、自分も介護スタッフの一員だという自覚から来るもので、
それはもう、実にこまごまと、てきぱきと、「おばあちゃん」のお世話をしてくれるのです。
それが彼の、現在のアイデンティティーでもあり、自信に満ちた現在の態度に表れています。

そのようなマジ君の「おばあちゃん」に対する気持ちが、「おばあちゃん」にもしっかり伝わっていて、
「おばあちゃん」は、マジ君を見る度に「一年生になったら、友達100人つくるんだ!」と歌った後、
必ず「卒業式(卒園式のこと)はまだかね?」と聞き、「ランドセルを買ってあげるね!」と語りかけているのです。

早くも椎茸が・・・!

いつの間にか原木栽培の椎茸が、食べごろになっていた。
最近の夜間の気温が低い所為であろうか、10月中旬に芽生え始めるのは少し早い。
2年過ぎるこの原木から、この秋、どのくらいの椎茸が収穫できるだろうか。
そろそろ手入れを始めなければならない。冬の薪の準備や畑の開墾と、
忙しい季節がまたやってきた。

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稲架(はざ)

稲刈りが終わった田圃のところどころに「稲架(はざ)」が見られる。
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だがその光景は、確実に減ってきたいる。
昨年は、ガードレールにかけていたのだが、今年はそれを見ない。

ちなみに【稲架】(はざ、いねかけ)とは、《学研国語大辞典》によると、
「(農学・農林・農業)刈り取った稲の穂をかけて乾かすために木などを組んだ
もの。はさ、はぜ、稲掛(いなか)け。」とある。

「田舎(いなか)」の語源は、ここにある、というのは私の説であるが、いかがであろうか?
  

マジ君、ついに自転車で100メートル以上走る!

稲刈りも終わった広々とした農道(幅4m、長さ150m余)で、
まったくの自力で、100メートル以上走らせることが出来た。
昨日のことである。
その時の嬉しそうな顔! 最高の笑顔だった。自信に満ち溢れていた。

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今日も乗りたいので、保育園に4時に迎えに来てくれとのことだった。

驚異的な成長!

このところのマジ君の成長には、本当に驚いている。
最近になって、出来るようになったことに、

1、補助なし自転車に乗れるようになったこと、
  補助輪はずっと前にはずしていたのだが、いろいろと忙しくて、一緒に練習に付き合う時間が取れなかった。
 ようやく日差しも和らいで、良い季節になったので、久々に練習した。何と1時間もしないうちに乗れるようになった のだ。緩やかな下り坂を50メートルほど、一人で進むことが出来たので、大喜びだった。

2、小さな昆虫をつかめるようになったこと。
  周囲が田圃や里山に囲まれたこの保育園では、皆が平気で昆虫やかえるを掴んでいるので、いつまでも捕まえ られなかったら恥ずかしい、という思いがあったのだろうか。

3、逆上がりや登り棒やさるわたりが軽々と出来るようになったこと。
  これは9月下旬にあった保育園の運動会に向けた「特訓」の成果である。

4、毎夕、ママが残していった置手紙を読んで、その返事を1文字ずつ練習して書くようになったこと。
  50音は読めていたのだが、書くほうはまだ今からだ。お手紙の返事を書くという方法で、少しづつ「書く」ことへ   の興味も出てきている。

5、テレビ以外は30分以上集中できなかったのが、パソコンの学習ソフトや、DSの学習ゲームなどに1時間近く集   中できるようになった。

6、食べる食事の量や種類が増えたこと。体重もこの間、少し増えてきている。

  こうした変化を、「驚異的な成長」というのはちと大袈裟だと思われるかもしれない。
だが、3年目にしてようやく見られるようになった変化である、と説明すれば納得されるだろう。
被虐待経験のある子の成長は、出発点はゼロではなく、マイナスといってよい。ゼロ成長であったものが、
ようやく人並みに成長し始めた部分については、「驚異的変化」ということが出来るだろう。
他の子並に「食べる」ことが出来るようにと、妻がどれほど心を砕き、メニューの工夫をしてきたかを思えば、
他の子並の食事量に少し近づいてきたことは、我々夫婦にとって、とても嬉しいことである。

このような自信と、地に足をつけて、一歩ずつ歩み始めることが出来るようになった背景には、
家庭での日常生活と、保育園での先生たちによる保育や、友達との遊びを中心とした活動の両輪がある

母と二人の病院通い

9月10日に母を連れて、眼科を受診した。検査に2時間かかった。
結果は、視力は右が0.01、左が0.03だった。右目は完璧な「白内障」と言うことであり、眼底検査の結果、左目に「加齢性黄斑変性」が見られると言うことだった。高齢と認知症のため、「加齢性黄斑変性」の手術は出来ないが
「白内障」の手術は全身麻酔で行えば出来るかもしれない。家族で相談して手術しようと言うことになれば、紹介状を書きましょう、と言う診断だった。眼科だけの病院では、リスクが高い手術は出来ないと言うことだった。

秋の気配が色濃くなった、8月下旬だったか、深夜突然、
「部屋の壁一面に、「虫」がびっしり張り付いているから、あそこでは寝られんよ!」
と言って布団を抱えて部屋を飛び出してきた。幻覚に因る強迫症状だった。「むしなんかいないよ」といくら言っても、収まりそうもない。やむなく、リビングのソファーをベッドにして、私も隣の部屋に布団を運び込んで、3日間、この「非常事態」をしのいだ。朝起きると、何事も無かったように落ち着いている。昼間はいつものようにデイで過ごすのだが、デイから戻って夕食を済ませた頃から、「虫」のことを言い始める日々が2週間は続いた。
かかりつけの神経内科の主治医に相談し、「精神科病院」への紹介状を書いてもらった。

同じ日に、兄弟で相談の結果、眼の手術もしておこう、ということで「独立行政法人国立病院機構 九州医療センター」の眼科医師への紹介状も書いていただいた。眼科治療によって、強迫症状も改善されるのでは、と言う思いがあった。今思えば、甘い見通しだったというほかはない。

かくして10月初めから、母と二人の病院通いが始まった。

母が我が家に同居して3年を過ごした。その間入院・通院した病院や医院の数は軽く10院を超える。
入院期間は合わせて8ヶ月くらいになる。「骨粗鬆症に因る圧迫骨折」「気管支喘息」「胃炎」「肺炎」「入れ歯作り」「認知症」「皮膚疾患」「眼疾」「強迫神経症」「パニック障害」・・・と様々である。
その都度、ハードな諸検査に耐えてきた。レントゲン,CT,MRI,血液検査、点滴、等、高齢の身体にとっては、
大きな負担となる検査や治療に、黙々と耐えてきた。ただただ「元気になりたい!」の一念で・・・。

マジ君とおばあちゃん

認知症が進む母にとって、マジ君の存在は特異なものである。
マジ君への関心と愛着は、尋常ならざるものがある。
最近は専ら、マジ君が「小学校に入学する」という「イベント?」に関心を寄せている。

昨日の夕食時、マジ君と私が食事をしていた時に、
既に1時間も前に食事を済ませていた母が、二人の所へやってきてマジ君に語りかける場面の記憶を
今朝の朝食時に、ママに報告しているマジ君の言葉である。

    おばあちゃんね、「学校に行ってますか?」って聞くけんね、
    「まだ、行ってません」って言うのに、
    まあた、「学校に行ってますか」ってきくと。
    やけんね、まあた「まだ行ってません」って言うのに
    まあた、「学校に行ってますか」ってきくとよ。

もう半年も前から、つまり入学の1年も前から、マジ君にランドセルを買ってやるのを
心待ちにしている母である。

季節は秋、経済は冬、そして、政治はたそがれ!

1ヶ月間介護に追われ、疲れて、ブログに向かう時間も気力もなくしていた。

先週の火曜日、西日本新聞の記者が取材に来た。
ネットで検索していたら、「団塊の主張全国コンクール」の記事が眼に留まったと言うことだった。
里親の経験や思いを伝えるためには良い機会だと思い、取材を受けた。
1週間後の昨日、夕刊の「団塊サプリ」と言う記事になった。

1ヶ月間サボっていたブログへのアクセスが、昨日は一挙に3倍となっていたので驚いた。
夕刊の記事が眼に留まった方が、アクセスしてくれたのだ。
また、頑張らなくっちゃ!と、思った次第である。

季節は、いつの間にか秋のど真ん中。
保育園の迎えの時間に、
「名月や 月は東に 日は西に」のとおりに昇り始めていた。
昨夜はまさに「中秋」の名月だった。

「きょうのつき、じゅうごやっていうんだよ!」とマジ君。

月を眺めるのが大好きなマジ君なので、夕食・入浴後の8時過ぎ
東の空に高く上がった名月を二人で眺め、愛でた。

アメリカのくしゃみで、欧州のみならず、日本も風邪をひいてしまった。
麻生総理は「全治3年」と言ってるが、命取りの病と言うこともある。
季節は秋だが、経済は再び、一気に冬を迎えたようだ。

自民党と与党のたそがれは眼に見えているのだが、それに変わるべき野党にも
政権交代に耐えうる安心や信頼があるわけではない。
まさに政治も、たそがれてしまった。

こんな時代に、われわれ庶民は、たくましくなる!

つくつくほうし!

「おとうさん!つくつくぼうしは自分の名前で啼いてるね?!」
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もう1週間も前のことになるが、フクちゃんを連れて一緒に散歩に出かけた折、
マジ君が突然こう言った。なるほど、うまい表現である。
このような子どもの表現は、大人にはなかなかまねができない。

10月になったというのに、昨日も「法師蝉」の声を聴く。
ただ、1匹だけが、淋しそうに啼いていた。

既に過ぎ去ったこの夏、法師蝉の初啼きの声を聴いたのは7月5日であったから、
3ヶ月近くを生き延びていたことになる。
勿論、1匹の寿命は1週間と言われるから、種族維持のため、
次々と命を繋ぎながらのことである。
おそらく蝉の仲間ではだんとつの長寿命であろう。

後日(10月10日)にも、遠くでその声を聴く。これが今年の啼き納めか?

我が家の夏が終わりました!

我が家族には、現役の大学生が二人います。長男と次男です。そのほかに長女と次女がいます。4人とも東京都内と近郊に住んでいます。近く次女が結婚するので、家族が一人増えることになります。
我が家の夏は、この5人が次々と、ばらばらに帰省することから始まります。長女は横浜の大きな病院の看護師をしています。5年目を迎えています。次女は、地元の大学院を出て、昨春IT企業に就職し、仕事にも慣れてきたところですが、同じ大学院を出て、某大企業にこの春、就職した彼と来春結婚することに成りました。

この5人の子どもたち(全員20才代です)が、7月から9月にかけて次々に帰省するのです。現在、我が家で一人っ子のマジ君は、この5人のお兄ちゃん・お姉ちゃんが大好きです。それぞれと、一緒に川に行ったり、海に行ったり、
自転車に乗ったり、映画を見に行ったり、花火をしたり、ご飯を食べたり、絵本を読んでもらったり、お風呂に入ったりすることが、楽しくてたまりません。まるで本当の兄弟のように、頼りにしているのです。

この夏、その5人の「兄姉」とたくさんの思い出を作ることが出来ました。その中でも、大学2年生のノグ兄ちゃんは2ヶ月近くある夏休みの内の3週間を我が家で一緒に過ごしました。だから毎日のように、一緒にフクちゃんの散歩に行ったり、風呂に入ったり、絵本を読んでもらったりしたので、マジパパは大助かりでした。そのノグ兄ちゃんもさすがに、大学のことが気になり始めたのか、今日の正午の航空便で東京へと戻っていきました。

そのノグ兄ちゃん、料理は得意なのですが、一人暮らしのため面倒で、あまりまともに食べていなかったみたいで、
3週間前帰省したときは頬はこけ、げっそりと痩せていましたが、5キロ以上体重が増えてまた丸くなって帰っていきました。このノグ兄ちゃん、我が家にいる間、殆ど毎日、フクちゃんの散歩を朝と夕方、または1日3回言ってくれたので、フクも大喜びでした。今日からフクちゃんは、1日1回の散歩と言う日常に戻ることになります。

そのほかに、マジの誕生日や、私の兄弟の来訪、夫婦それぞれの友達の来客の「おもてなし」と、5月から4ヶ月間
私たち夫婦にとっては、実に多忙・かつ充実した毎日でした。その食材の調達先の大部分は、我が家の畑と、「街道魚市」だったのです。新鮮・安心な野菜と魚が皆さんにとても喜んでいただけましたが、妻の料理の腕前なくしてはとても成り立たない最高の「おもてなし」でした。

我が家に元気で可愛い、6歳の里子ちゃんがいると言うことで、私たち夫婦は、忙しくも、賑やかで充実した毎日が過ごせているのです。一人の子どもの持つパワーが、これほど多くの人びとを集めていると言ってよいでしょう。

きのう火事がありました!

昨日の午後3時頃のことです。消防団の小さな消防車が2台、けたたましいサイレンを鳴らしながら我が家の前をものすごい勢いで通り過ぎていきました。空にはヘリコプターが2機、轟音を轟かせながら旋回しています。
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別の道から消防車が次々にやってくる音がします。どんなすごい火事だろう、と誰でも思ってしまいます。かくして煙の立ち上っているところまで、軽トラに乗って出かけてしまいました。
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4,5人の人達が同じ場所から煙のほうを見ています。野次馬です。その仲間入りです。でもすぐに火は消え白い煙に変わってしまいました。火事の当事者にとっては、有難いことなのですが、「野次馬たち」は、口では速く消えて良かった、と言いながらも、せっかく見に来たのに・・・と言う思いが残らないわけではありません。不謹慎なことです。

それにしても、ヘリコプターが2機とは、ちと大げさではありませんか。

今日は「重陽の節句」だそうです!

日本全国秋晴れです。でも、日差しはまだ暑く、30度近い残暑となりました。
そう言えば、ハガキだけはたくさん準備していたのに、暑中見舞いを出すチャンスを失いました。
改めて、残暑お見舞い申し上げます。
さて、ご馳走の食べすぎか、ビールの飲みすぎか、夫婦そろっておなかを壊しています。
私のほうはほぼ回復し、今夜はビールが飲めそうです。妻のほうは頑固に薬を拒否するので、回復が遅れているようです。二人とも昨日は絶食に近い状態でした。元気の塊のようなマジ君のお相手をしなくてはなりませんので、
病気になってもゆっくりしているわけには参りません。1日でも早く直さなくてはなりません。その前に病で倒れることがないように、日ごろからの健康管理に注意していなくてはなりません。

ところで、今日は9月9日。 「重陽の節句」です。別名[菊の節句]とも言うそうです。旧暦なので、実際は菊花の季節はしばらく遅れます。では、9月9日を重陽の節句というわけは?

「重陽の節句の起源は、ほかの節句と同様古来中国にさかのぼることができます。中国では、奇数は縁起のよい陽の数とされ、一番大きな陽の数である九が重なる9月9日を、「重陽」として節句のひとつとしてきました。

中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を袋に入れて丘や山に登ったり、菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという風習がありました。これが日本に伝わり、平安時代には「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」として宮中の行事となり、江戸時代には武家の祝日に。その後明治時代までは庶民のあいだでもさまざまな行事が行われていたといいますが、残念ながら今では私たちの日常生活とは縁遠くなってしまいました。

旧暦の9月9日というと現在では10月にあたり、ちょうど田畑の収穫も行われる頃、農山村や庶民の間では栗の節句とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝ったということです。さかんに行われていた重陽の節句が、現代に引き継がれていないのは、旧暦から新暦にこよみが移り、まだ菊が盛んに咲く時期ではなくなってしまったことが大きいのかもしれません。

菊の節句をめぐって   重陽の節句は別名、菊の節句とも呼ばれます。

宮中行事としては天皇以下が紫宸殿に集まり、詩を詠んだり菊花酒を飲んだりしてけがれを祓い長寿を願いました。また、菊の被綿(きせわた)といって、重陽の節句の前夜にまだつぼみの菊の花に綿をかぶせて菊の香りと夜露をしみこませたもので、宮中の女官たちが身体を撫でてたりもしたといい、枕草子や紫式部日記の中でもその風習をうかがうことができます。中国では、菊の花には不老長寿の薬としての信仰があり、鑑賞用としてより先に薬用として栽培されていたようです。漢方でも薬効を認められている菊の花の種類は少なくありません。

その意匠が皇室の紋章ともされている菊は、まぎれもなく日本を代表する花といえますが、そのルーツは、薬用として中国から伝わったものでもあるようです。薬用ということはさておき、日本では食用の菊花もさかんに栽培されています。日本で菊を食材とするようになったのは、室町時代のことらしく、現在では青森県、秋田県、山形県などの生産地を中心に、さまざまな菊料理がつくられています。 」  ※コピペしました、すみません!

いつの間にか法師ぜみだけ

4,5日前からだったが、朝・昼・夕方を通して蝉の鳴き声が法師ぜみだけになっていることに気がついた。
あれだけたくさんに、仰々しく啼いていた、油蝉やクマゼミは何処に行ったのか。

蝉は抜け殻を残すが、自らの屍骸は何処にさらしているのだろう。

蝉の世界の恋のかけひきは、今や法師ぜみだけとなり、他の蝉たちは恋が成就し、地中にしっかりとその子孫を残して立ち去ったに違いない。残された子孫たちは、今からおよそ7年間昆虫としては異例の長さの時間を、暗い土の中で過ごすのである。

それにしても、この前までは遠慮がちに啼いていた「法師蝉」たちの鳴き声の、堂々としていることよ!独特の節回しで繰り返し啼き続ける彼らの鳴き声は、あの賑やかで、あわただしかった油蝉やクマゼミたちの泣き声と違って、緩やかでどこか哀愁さえ帯びている。夏の終わりを静かに告げる歳時記である。

マジ君、プールで大喜び!

ノグ兄ちゃんが、突然、プールで泳ぎたいと言い出したので、とるものもとりあえず、マジ君と3人で、市民プールに行くことにした。大人用の水泳パンツはどこかに仕舞い込んでいたので、途中で買っていくことにして立ち寄った店が2軒とも、もうおいてないという。もう海水浴シーズンはとっくの昔に終わっていることに気がついた。

1時間以上かかってやっと3軒目の店で見つけた。マジ君は待たされ焦らされて不満たらたら。

でも、プールに着くと俄然張り切り始めた。大入り満員の上、正味1時間ほどしか水に浸かれなかったが、マジ君は大満足。何しろ、親の怠慢で、水遊びと言えば、近くの川で済ませたり、里親会のキャンプで海水浴に行くくらいがせいぜいだったのが、初めて、広くて深いプールで泳げたのだから、大喜びであった。

水を得た魚と言う感じで、全身でその歓びを表現していたのである。

忙しさにかまけて、これまで連れて行ってやらなかったことを、反省させられた次第である。

お酒になった赤マムシ君

マムシ退治に並々ならぬ情熱を注ぐわが隣人。今朝は、今年15番目に捕獲された赤マムシ君が、磔の刑ならぬ「マムシ酒」の刑となっている処刑現場に立ち会うことが出来た。
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近頃ではあまり見られない光景なので、ギャラリー(マジ君とノグ兄ちゃん)に集合かけて、写真撮影もさせてもらった。
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そのおじちゃんの話によると、捕獲したのは1ヶ月前。すぐに一升瓶に生きたままのマムシの首根っこをつかんで押し込み、1ヶ月間水攻めの刑、マムシは1ヶ月くらいは水の中で、胃腸の内容物を吐き出しながら生き延びると言うことだ。
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今日がその1ヶ月目と言うことで、壜から採り出したマムシを高さ50センチほどの漬物樽(プラスティック製)に入れると、何と尻尾をばねにして、その50センチの高さを軽く飛び越えたそうである。

1ヶ月間、水の中にもぐって暮らしていたのに平気であると言うその生命力が、貴重な精力剤として用いられる所以である。ともかくこうしてその赤マムシ君は、今度はアルコール度数が24度のホワイトリカーにつけられて、精力が枯れ始めてしまっている人間様のドリンクとなる運命なのである。

ちなみにかの隣人は、私にも飲ませてあげようと言うことであった。でも、この年で精力絶倫になったとしたら、妻は喜ぶどころか、私を張り倒してしまうだろうから、やっぱり飲まないでおこう。でも、ちょっとくらいはいいかな?

ともかく、干からびてしまうまで磔の刑に処せられるよりは、アルコールにつかって死んで、人間様を元気にするお役に立てたほうが、マムシ君は幸せかな?

価格破壊の魚屋さん

朝早く、マジママがマジ君を連れて、街道魚市の日曜朝市に出かけた。1ヶ月近く夏休みで帰省し、逗留したノグ兄ちゃんがもうすぐ東京に帰ると言うので、大好きなお刺身を食べさせようとの親こころである。と言っても、かかった費用はしめて800円也である。別に宣伝費を頂いているわけではないが、驚異的なまでに格安なのでついつい言いたくなってしまうのだ。今回は、地図貼付で紹介しておこう。だって、庶民の味方には頑張ってもらいたいからね。
 まず、マジママが今朝買って来た魚と量を知らせておこう。

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  鰺5匹(重さは測ってないが長さは50センチくらい) 刺身用 500円

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         太刀魚10匹(長さ;60~70センチ)  200円

買い物に行っていた間(約1時間)、私は出刃包丁と刺身包丁を問いで待っていた。そして帰り着くなり、私の手で捌いた。それを引き継いで、塩焼きと刺身にするのは、魚屋出身の妻の出番だった。5人では勿論食べきれないので、明日、子ども劇場のパーティで振舞うという。費用は〆て700円だ。調理済みでスーパーに並んだ商品は、おそらくその10倍以上の価格になるだろう。皆さんも「街道魚市」に行ってみませんか!


                      「街道魚市」のマップ

ある青年との出会い Ⅱ

あの青年のことが気になっていました。

もうお昼近い時刻でしたが、今度はマジ君とノグ兄ちゃんの二人を乗せて、マジ君が昨日、近所の方から頂いたキックボードの試運転をしたいということだったので、長さ200メートル余りある直線の広い歩道に下ろして、私一人で昨日の店に行きました。

するとなんということでしょうか、あの青年と再び出くわしたのです。

きょうは、彼は特売広告を見て、かまぼこを2本だけかごに入れていました。こちらから声をかけると、私の買い物が終わるまでずっとついてきて、いろいろと話が出来ました。

それによると、ご両親がなくなられたのはもうかなり前のことのようでした。そして彼自身、仕事で怪我をしたものか、脊髄損傷で1年間の入院生活を送り、退院後も元の仕事には復帰できなくなったそうです。

お兄さんが働いていて家計を支えているようでした。そのお兄さんが日曜日はまだ寝ている時間だったようですが、彼がこうして毎日のように買い物を引き受けているのでしょう。

お互い名前は知らせ合ったのですが、彼が私のところを尋ねてみたいようだったので、住所・電話番号をレシートにメモして渡したところ、彼は漢字が読めないと言うことでした。困ったことがあったら電話して頂戴、と言って別れました。

「部屋が虫でいっぱい!わたしゃここじゃ寝んけんね!」

ついに母の部屋が「虫」に占領されたようだ。

いつものように、デイから帰ったらすぐに食べられるようにと、準備を整え、部屋のテーブルに配膳を済ませていた。
食卓についてしばらくすると、けたたましい声で、私を呼ぶ。「見て見て、大きな虫が一杯。うじゃうじゃいる。」

「わたしゃ、こんなところでたべる気にならんけん。」そこでリビングに配膳盆のまま持って行ったが、「もう食べん!」とご立腹。そのまま置いていたら、1時間後くらいには好きなものだけ一応食べていた。だが部屋には戻ろうとしない。そして何度も「虫が・・・虫が・・・」を繰り返し、何のことだかわからずに困ってしまっているマジ君までを巻き込んで騒いでいる。お手上げである。

ここで「そんなものいないよ!」と言おうものなら、たちまちに数倍の勢いで反撃される。その剣幕たるやすさまじい。だからこうなると、「はいはい」と頷いて、余計なことを言わずに待つしかない。

2時間くらいたつとさすがに眠くなったようで、「わたしゃ、何処に寝たらええかね?」と聞いてきたが「奥の部屋にはねらんよ!」とダメ押しをする。やむなくベッドの上の布団類をまとめてリビングの応接セットの、ベッド兼用の長いすの上に敷き、簡易ベッドを作った。とりあえず、今夜はこれで凌いでおこう。でも明日からどうなることやら。

マイスリーを飲んでもらうと、30分ほどで入眠できたようである。やれやれであった。

ある青年との出会い

土曜日なので保育園には、4時前にお迎えに行かなければならない。買い物もあったので、3時半頃お迎えに行くと、朝一緒に遊んでやった年少さんが、マジ君のそばにくっついていた。それでも、「買い物に行くよ!」と声かけるとすぐに帰り支度をして、車に乗った。その子と同じ方角だったので、後ろから来るその子のことばかり気にしていたのだが、その車は同じところへ買い物には行かなかった。

我が家から一番近いそのスーパーは食材を中心にしたお店で、良く買い物に来る。店に入ると、すぐにどこかで見かけたことのある軽い知的障害がある青年とであった。彼のほうも、どこかで私とであって覚えていたかのようで、店の中を私たちの行くところに来て回りをうろうろしている。声のかけようもなかったのだが、レジで一緒になった。

と言うよりも、私たちの後に彼が並んだ。彼が買おうと手にしていたものは、第3のビール二缶とタバコであった。30歳近い青年であるから、ビールを飲んでも不思議ではない。

思わず、「今から一杯やると?」と手振りを添えて彼に尋ねると、
「仏さんになったお父さんと、お母さんにあげると!」と言った。
「ふーん、えらいねえ!」一呼吸置いて、
「それじゃ今、一人で暮らしとると?」と聞くと、
「いんや、兄貴と一緒に住んどると!」
さらに「何処で働きよると?」と聞くと、「保育園の前の会社にいたけど、怪我してからやめたと!」と言うことだった。

その会社には、私の長男の同級生が今も元気に働いている。その彼は長男と中学が同級であった。軽度の知的障害があり、障害児学級に在籍していたが、長男とは仲良しだった。良く我が家にも遊びに来ていた。

「その会社だったら「けんちゃん」知ってる?」と聞いてみた。良く知っていた。反対に「どうして知ってると?」と聞かれたのだが、マジ君同伴だったので、会話はそこで終わり、「元気でね」と言って別れた。

深い余韻が残った。彼の名前を聞いて置けばよかったが、こちらの名前は告げておいた。

おそらく最近、一度に両親をなくしたのであろうか、缶が二つあった。そして、「自分も飲みたいけど・・・」と言っていたが、三缶買うほどの手持ちがなかったのであろう。それにタバコ一箱。おそらく、ビールとタバコが大好きなご両親だったのであろう。ひょっとして交通事故ではないだろうか。その時彼も同乗していて、怪我をしたのかもしれない。

確とした根拠があるわけではないが、彼の落ち着かない様子から、よほどのことが身の上に降りかかったに違いなかった。一時に両親を失ったのかもしれない彼の悲しみと境遇を思うと、忘れられない一駒となった。

「かわいい」というコトバと、その感情の由来。

フクちゃんが、実家で誕生してまもない頃に撮影されたフクちゃんの兄弟(姉妹)4匹で写った写真が何とも可愛い。
妻がその写真の拡大コピーをして、額に入れていたのだが、今朝になってマジ君がその写真の子犬たちが、とても可愛く、愛らしく思ったのであろうが、自分の気に入った場所に貼り替えると言う。何処がいいか考えあぐねたり、どうやって貼ったらいいか訪ねたりして大変だったらしいが、そのうちお気に入りの場所を見つけて、自分で貼り替えたのだ。

最近になって、フクちゃんの存在が、特別に可愛く思えるようになったみたいで、ノグ兄ちゃんと一緒に散歩に連れて行ってやったり、その後、餌や水をやったりして、良く面倒を見てやっている。3年前、我が家に来た頃は、同じフクちゃんをとても怖がり、泣いて逃げ回っていた。それがこの変わりようである。同じ屋根の下で暮らし、日々接しているうちに、次第に可愛くなってきたのであろう。目の前のフクちゃんが可愛ければ、その子どもの頃はもっと可愛く思えるはずである。

マジ君の心の中で、動物や植物を育てたり、日常接したりするうちに、彼らのことを次第に可愛く、大切なものに思われる心情が育ってきているようだ。

今朝、保育園に送っていってしばらくしてから、忘れていた着替えをママが届けに行くと、暑い日差しの中で、汗びっしょりかいて、年少さんが乗っている三輪車を押してあげたり、一緒に遊んでいるマジの姿と出くわしたらしい。その子は、マジ君の登園を今か今かと楽しみに待っていたそうである。マジ君にとっては、その年少の子どもたちが可愛くてたまらないようなのだ。年長さんが、年少さんの面倒を見てあげると言う、微笑ましくも、愛らしいこのような光景は、この園では日常的に見られるところである。面倒見の良いマジ君は、年少さんからも慕われているらしく、私が迎えに行ったときも、よく年少の可愛い子どもたちから声かけられる。2年余の間に、集団の中で育っていった情操だろう。ところで、自分がまだ、「かわいい」と言われる年齢であるのに、フクちゃんや、年少さんのことを可愛いと思い、可愛いと言う、感情や言葉の由来は何処にあるのだろう。気になったので調べてみた。以下引用する。
可愛い(かわいい、Kawaii)は、日本語の形容詞で、いとおしさ、趣き深さなど、何らかの意味で「愛すべき」と感じられる場合に用いられる。また、「かわいそう」と関連するという考え方もある。派生語にはやや意味を強めた「可愛らしい」、動詞の「可愛がる」がある。
同義の古語は「うつくし(愛し)」(例:「うつくしきもの」(「枕草子」))である。現代語の「かわいい」に該当する古語の「かはゆし(かわゆし)」は、「いたわしい」など相手の不幸に同情する気持ちを指す。
共通語・標準語の「可愛い」と同義の方言の語彙は、東北方言・北海道方言の「めんこい」や「めごい」(津軽弁など)がある。 これらの語は古語の「めぐし(愛し)」から派生した。「めぐし」には、「いたわしい」と、現代語の「可愛い」の両方の意がある。

【語源とその変遷】
「かほはゆし(顔映ゆし)」が短縮された形で「かはゆし」の語が成立し、口語では「かわゆい」となり、「かわゆい」がさらに「かわいい」に変化した。
「かほはゆし」「かはゆし」は元来、「相手がまばゆいほどに(地位などで)優れていて、顔向けしにくい」という感覚で「気恥ずかしい」の意であり、それが転じて、「かはゆし」の「正視しにくいが放置しておけない」の感覚から、先述の「いたわしい」「気の毒だ」の意に転じ、不憫な相手を気遣っていたわる感覚から、さらに「かはゆし」(「かわゆい」「かわいい」)は、現代日本語で一般的な「愛らしい」の意に転じた。
「かわいい」の漢字と送り仮名による表記の「可愛い」は、当て字との説もあるが、中国から伝来した文学等の文書に見られる、「愛らしい」の意の語「可愛(可爱)」に由来するとも思われる。この語は現代中国語でも「愛らしい」の意では一般に使用されている。
【意味】
一般に、大きいものより小さいもの、角張ったものより丸いものが「可愛い」と評価される傾向がある。これは赤ちゃんが持つ特徴であり、「可愛い」は幼いもの、小さいものに対する情愛や愛着などを表現する意味合いが強い。そのため、恋人などを「かわゆく」思う場合は別として成人に使う場合は失礼とされた。
しかし、現代においては、主に若年層が人物に対して「かわいい」と表現する場合、対象者の年齢・社会的地位などに対する敬意表現はほとんど考慮されず、目上の高齢者や成人男性、場合によっては、神仏の像や天皇に対して使用される例も散見される[1] 。これは「愛すべき」対象の適用範囲が、単なる外見にとどまらず性格やイメージに関してまで広がったことにより、対象に対して敵意を抱く要素や威圧的な要素がなく、自身の心を和ませる美点をもつと判断された場合に使われるようになったことによる。また、客観的な優位者に対する場合に留まらず、若年層の女性が憧憬の念を含めて、自身の価値観に基づいて自身より優れていると認識した人物に対して使用する例もしばしば見られる。特にその人の社会的地位や役割からして自分と距離があってもしかたないと感じている相手の距離感が近かったり、一時的に縮まった場合に「かわいい」と感じられやすい(例:気さくに話しかけてくれる校長先生や、ふだんとても冷静で落ち着いた上級生が恋に悩んでおろおろしていたりするのを見たとき)。そこには言葉の意味の変化にとどまらず、現代日本の若者の感情規範に変化があったものと推測される[2] 。
また、卑下の意味合いを含めた用法も依然として存在している。成人の子どもじみた言動に対する批判や皮肉として用いられる場合(例えば、お笑いコンビいつもここからの持ちネタ「かわいいね」が人気を呼んだのは、こうした用法が広い年齢層に受入れられていることを示している)や、女性が自身に比較して劣位にあると判断した人物に対して用いる例などがしばしば見られる。
ただし、若年層特有の用法を中心として、これらは現代日本独特のものと言って良いものであり、たとえ日常の親しい者との会話において問題にならなくとも、安易な気持で年齢層や異文化を背景とする者に対して「かわいい」を濫用すると、侮辱と受けとられる場合も少なからず想定されるので、その用法には充分な注意を必要とする。
                                                  〈ウィキペディアより引用〉

人間の“尊厳性”って何ですか?

母の場合、アルツハイマーに加えて、強迫神経症の症状がある。

以前は「手を洗うのがやめられない」と言うのが主な症状であったのが、最近は、それが足に移ってきている。毎朝、母の歩くところは掃除機をかけ、吹き掃除もしているのだがそれでも足に埃や小さなゴミがつくのが気になって、ベッドに横になる度にティッシュを2,30枚使って足の裏を拭わないと気持ち悪いのだ。

最近では、夜だけで1箱(150組)のティッシュを使い切ってしまう。
冬場、薪ストーブを使っているときは、糞尿のついていないものは燃料にしていたのだが、夏場は殆ど未使用の大量のティッシュをそのまま燃えるゴミに出さざるを得ないのが、勿体ない。
節約のため、やや安価なトイレットペーパーに換えてみたが、使い勝手が悪い。
落とし紙にしてみても、かえって量が増えてしまう。結局またティッシュに戻ってしまった。

認知症が進むと、排泄後の処理が自分で出来なくなる。最近は便秘が三日以上続くことは殆どなくなったのだが、
乳製品を食べる(飲む)と効果覿面で下痢になる。今朝は3回トイレを汚したのでその処理に追われた。
それに加えて、最近は妄想が強くなってきている。

「庭の(部屋の前)柿の木にかわいい猫ちゃんが止まっている。食べるものも無くてかわいそう。」と言う妄想が
長いシリーズ物のようにこの2ヶ月間(断続的に)続いている。

途中、中断していたのは、お盆に次男と4男が泊りがけで来てくれた、という非日常の体験から起因した妄想が、それに加わって、その日以来20日間続いている。

縮んでゆく海馬の働きからは独立した、動物的な本能によるものか、人にだけ備わった感情の働きなのか、

離れて一人暮らししている56歳の末っ子のことを、思い続けているのであろう。どうやら夢に出てきたようである。
「◎◎(末っ子、4男、弟)が、さみしい、さみしいと泣いてた。私、◎◎のところに行ってやる。」と何度も何度も繰り返してこの二十日間言い続けていたのであるが、直接電話をかけて本人と話をしても、「心配させまいと嘘を言って
いる」と、新たな思い込みが加わり、その妄想はより強化されるのである。

また、時々ではあるが、深夜・早朝・時をかまわず突然に、大声で私を呼ぶ。あわてていくと、「部屋の中に虫がうじょうじょいる。早く獲って!」と叫びまくっている。パニクッテいるのだ。

いずれにせよ、そのような妄想を頭から否定すると、それはさらに強化され攻撃的となる。「うん、わかったそうしようね。」といったん受容することが、本人を安心させるためには不可欠な対応であることを、この間学んだ。時にはその妄想に付き合い、さらに膨らましてやる。本人があまりに滑稽だと気がついて笑い出したらしめたものである。一緒になってファンタジーと思って、妄想を楽しむくらいの余裕がないと、こちらもやってはいられない。

トイレやパンツや衣類を汚してしまったとき、条件反射のように言う「口癖」がある。
「もうあの世に行こうかね。どうしたら死ねるやろうか。」と言う決まり文句である。
世話になってすまないから、と言う気持ちと、恥ずかしいと言う照れ隠しがあるのである。
最近までは、排泄の処理を男である「息子」に任せようとせず嫌がっていたのだが、症状の進行と失敗の連続のため、そんなことを言ってはおれないと、次第にさせるようになってきた。だがまだ残っている気恥ずかしさを、その決まり文句で糊塗しようとするのであろう。

もうすぐ母の84歳の誕生日がめぐってくる。認知症が進んでくると、介護する側もその大変さについつい、
ひどいコトバを投げつけてしまうことがある。実の親子関係であればなおさら感情をぶつけ合ってしまうのだ。
母の場合、週6日間、デイに通ってくれるため、そうした場面を最小限にとどめているが、デイに通わず24時間在宅で介護しようとしたら、とっくの昔に破綻し、虐待の当事者となっていたことであろう。

アルツハイマーと診断されて3年になるが、その前期症状を加えると、5年を超えるだろう。仮に5年間としてみても
その5年間のために、人間として生きてきた84年。母親として生きてきた67年。その尊厳性は微塵も失われてはいないのであり、また、決して奪われてはならないのである。排泄処理を息子の手にゆだねざるを得なくなっても、
その尊厳性は微動だにせぬはずなのだが、当人自身は情けない思いをし、介護する側は、赤ちゃん扱いをして小ばかにしてしまう、という感情に支配されてしまいやすい。そのことを自分への戒めとしておきたい。

デイケアセンターの“仲間入り”

昨日からデイケアセンターに“仲間入り”いたしました。
アルツハイマーの母がデイケアに通うようになって、もうすぐ3年になります。
よもやこの私が、そのお世話になろうとは、思いもよらないことでした。

先日、夫婦共通の知人であるA氏から電話があり、「生活相談員」になってほしいと頼まれました。私が退職後、自宅で暇をもてあましていると、世間は思っているみたいです。
細々とですが、「インターネット古書店経営」という経営者でもあるのです。その上自称「文筆家」でもあり、「農業従事者」でもあり、家事労働者でもあるのです。決して暇をもてあましてなどいないのです。アルファブロガーには及ばぬとしても、オメガブロガーも実践しているのです。
“イマジン”ならぬ「The HIMAJIN」という肩書きははずしてもらいたい!
と思いながらも、「無理すれば、週1日、月4日くらいは融通つけられないこともないですよ」と答えて勿体つけて、出かけていった次第です。

ところがこれがまあ、何と楽しいこと!日本全国津々浦々にコンビニよりもたくさん行き渡っている「デイケア」の中に、これほどユニークなところも少なかろうと思われるほどに楽しい居場所だったのです。

開所して日が浅いのですが、6,7名の利用者があり、
小規模であるが故のアットホームの雰囲気に満たされておりました。
「生活相談員」って何するの?と思いながら行ったのですが、
昨日の場合、利用者2名にスタッフ5名、という実にゆったりとしたものでした。

利用者の一人は90歳の女性で、元小学校の先生でした。認知症は無く、今も眼鏡なしで新聞をよく読まれているようです。テレビを見る時間がもったいなくて、家でも絶えず指先を動かして、折り紙などを折られているそうです。
歯も自分の歯のようです。いろんなお話をしてくださいましたが、記憶も確かなようです。
どうしても7歳年下の母の現在と比較してしまいます。・・・決して本人の所為ではないのですが・・・。

もう一人の方も、元教員の女性でまだ70才代のようです。
歩行が少し怪しくなっているほかは、とてもお元気で、抜群の記憶力をお持ちです。
いろんなことに興味をお持ちのようで、スタッフとのおしゃべりがやむことがありませんでした。

お二人の高齢の男性スタッフは、管理者であるA氏(元市会議員)のこれまでの生き方や活動にほれ込んでずっと支援をされてこられた方々なのですが、常駐ボランティアとしてこのデイケアセンターを支えてくださっているようです。いずれも博覧強記を言ってよい該博な知識を持ち、おしゃべり好きな利用者の強力なサポーターとなっておられるようです。

ちなみに昨日の話題を拾い上げて見ると、
「八幡宮や天満宮の起源」「菅原道真公の足跡」「教育基本法のこと」「大分の教職汚染」「自家菜園(当センター所有の菜園が3箇所あるそうです)」「魚(鱈や鯔)のこと」「政界の現状」「道州制について」「料理のこと」・・・ときりがありません。久々にこのような知的な刺激を受け、コーヒーを飲みながら談話を楽しんだり、ドライブに連れて行ってもらったりしてデイケアがお年寄りに対して果たしている役割の大切さを実感しました。

反面、子どもが置かれている生活環境・教育環境の貧困と格差に思いを致さざるを得ません・

お百姓の仲間入り?

前の車(前妻 古女房 9年式 8人乗りワゴン車)が先日ぶつけられ、満身創痍となった。「×1」で我が家に嫁いで、7年間で約10万キロ走ってくれた。長女・次女・次男と3人の高校・大学へのアッシー君をやってもらったが、その役割も終えた今、感謝しながらご引退していただくことにした。
長い間、お世話になりました。なぜか古女房と別れるときのような、愛惜の思いで胸塞がれた。

替わってお興し入れ頂いたのが、同じく「×1」だが6歳若い15年式、走行距離2万キロの元気一杯、働き者の若女房である。特技は荷物運び。
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この地域は、殆どが農家なので一家に一台は軽トラックがある。
これで、我が家もついにその仲間入りをした。
当面は、冬の暖房のための薪運びが、主な仕事になる。

大喜びのマジ君。保育園にこの新妻とお迎えに行くと、早速荷台に乗り込んだ。風が心地よいのだろう。

哲学するカエル?

朝、洗濯物を干すときも、夕方、取り込むときも、同じ位置に坐り続けて田圃を見つめているアマガエル。
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カメラを至近距離に近づけても、悠然としたものだ。もう1ヶ月以上、いや2ヶ月近くなるだろう。
このステンレスの物干し竿を自分の居場所と定めているようだ。
時々は、飛んできた虫を、すばやい動きで捕獲して食べているのであろうが、
人間を怖がりもせず、居座り続けている。おもしろい生き物だ。
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面壁9年の達磨大師か、樽の中で考え続けたディオゲネスのように、
カエル仲間から「竿の上の哲学者」とでも呼ばれているに違いない。

「逆上がり」の力?

昨日、逆上がりが出来たことを先生が褒めて下さったのであろうか、まだ練習中の子どもたちの態度が一変したようで、俄然がんばりだしたそうです。そのことがお迎えに行ったときに、連絡帳に書かれていました。なるほど、いつになくたくさんの子どもたちが鉄棒にぶら下がっています。
マジ君が練習をがんばっていた姿は、皆も認めるところです。マジ君のように頑張れば、出来なかった人も出来るようになるのだという、良いお手本になったみたいです。そのように褒められたことが、どれほどマジの心に自信をもたらしてくれたことでしょう。昨日・今日と彼の態度は、いつもと違って自信に満ち溢れていたようです。食が細い彼がいつもの倍くらいの量を、いつもの倍くらいの速さで食べるのです。自分から率先して動き出し、準備や後片付けをしているのです。頑張って出来たことが、正当に評価されることで、子どもはこれほどまでに前向きになり、自主的になれるのです。諦めずに頑張れば、結果を出せるという、人生で大切なことを一つ身につけたといえるでしょう。
先日の「全国一斉学力テスト」に付随して実施された子どもたちへの「生活アンケート」(質問紙)の結果の中に、「自己肯定感」(自分にはよいところがある)を持っている児童がとても少ない(3割弱)ことに驚きました。このような達成感を持つ機会が多くあるほど、「自尊感情」は育てられていくものと思います。子どもにそのようなサポートが継続的にできるといいのだと思いますが。

雨の力、生きる力、草刈虫!

先月(8月)の26日に草刈をして、まだ6日目であったが、

久々の晴天の今日、気がつくと刈払い機のエンジンをかけていた。

6日前に刈った土手の草が、何と20センチほど伸びているのである。

6日間の間、断続的に降った雨で、秋の草花が延び始めていたのだ。

それにしても、1日3センチ以上伸びるとは驚いてしまう。

その分、田圃の稲も順調に伸びているようである。

やったー、(逆上がりが)できたー!

ポニョを見て、すっかりご機嫌で、いつもよりすっと早く、元気良く、保育園に行ったマジ君。

何とその後、一人で(先生の補助なしで)逆上がりが出来たと言うことです。

先生の話では、一度出来たら、繰り返し何度も出来たと言うことでした。
出来た本人は、さぞかしうれしかったことでしょう。

今日の送り迎えはどちらもママだったので、きっと帰りの車の中で、ママに報告したのでしょう。意気揚々と帰ってきて、とっても元気な声で「ただいまー!」と言っていました。

1週間ほど前だったか、小学校の運動場の補助つき鉄棒で、何度も練習して
けりあがる感覚をつかんでいたのでしょうか、雨で1週間くらい出来なくて、1週間ぶりの試技だったにもかかわらず、あっさり出来たので、嬉しさひとしお、と言うところでしょうか。

『崖の上のポニョ』を見に行きました

1ヶ月以上も前から、婉曲な表現で「奈々ちゃんも敏くんもえっちゃんも、みーんな見に行ったちゃけん!」「テレビじゃないとよ、映画館にいったっちゃが・・・」と繰り返していた。

どうやら、保育園の年長さんは、9月の運動会でこのポニョの曲を演奏するらしい。

保育園の運動会の最大の出し物は、年長さん全員による「鼓笛」なのである。

年中・年少さんは、その姿がかっこいいので、早く年長さんになりたいと思うほど、それは皆からの憧れと賞賛の的となる。だから年長さんは、運動会ではとても張り切るようだ。

3回目の運動会を経験するマジ君も、張り切っている。ちなみに彼は、中太鼓を受け持つそうだ。かわいらしい6歳児が27人正装して演奏する姿は、ひときわ参観者の眼を引く。かく言う、私も昨年、わが子がいるわけではないのに、そのあまりのかわいらしさに、デジカメのシャッターを何度も切ったものだった。

かくしてもうずいぶん前から練習は始まり、ポニョの主題歌を丸覚えして、何度も繰り返して歌っていた。歌は覚えたけど、映画を見たことが無く、ポニョがどんなものなのかを知らないのでは、格好もつかないし、収まりもつかないだろうということで、今日、マジ君とおとうたんとノグ兄ちゃんの3人で、出かけた次第である。

1ヶ月以上待たせただけに、期待と想像が膨らみ、マジの顔には、満面の笑みが浮かんでいた。その甲斐あって、1時間半、身じろぎもせず、熱心に見ていた。終わってから、ひとこと、「おもしろかったー!」、と叫ぶように言っていた。

157円の老眼鏡

結構役立つ老眼鏡を100円ショップで見つけた。

もう5,6年前になるが、「めがねの愛眼」でクレジットカードを作り、6,7万円はする老眼鏡を買った。

店員さんのお勧めにしたがって、あえて遠近両用ではなくて、遠視用を買ったのだが、2,3年で合わなくなってしまった。

それ以来殆ど使っていなかった。近視もあり、夜間や雨天時の車の運転のときに限って、別のめがねを使っていた。

日常生活では、不自由せず、どちらのめがねも日ごろはかけていなかったのだが、ここ数年の間に、遠視のほうが着実に進んでいたのである。

次第に新聞や雑誌、新書や文庫など細かい文字が読みづらくなっていた。明るい照明の下では、比較的楽なのだが、証明が暗いと殆ど判読できない。

かといって、遠視の進行に合わせて眼鏡を買い替える余裕も無く、古本屋と言う商売にもかかわらず、殆ど本を読まない生活が続いていたのである。

幸いに、パソコンでの入力には困らなかったので、書く事は続けてこれたのだが、書くためには読まざるを得ない。

そんな悩みを持っていた最近のことである。ふっと思い出した。

確か100円ショップに「老眼鏡」が置いてあったな、ひょっとして合うかもしれない、行ってみよう、と言うことになって、早速行ってみた。

度数が3+以上だったら、新聞や本の細かい文字を読むときに役立つことがわかった。

150円+消費税で157円だった。これなら度数が進んでも対応できる。

勿論、眼医者や眼鏡屋は、皆がそんなことを始めると商売上困るので、そんな眼鏡は、眼を悪くしますよ、とか言ってくるに違いないが、とりあえず役に立てばよいのである。

1,2年しか使えず、しかも2,30回くらいしか使わなかった眼鏡に6,7万円かかったとすると、1回使っただけで2千円かかったことになる。こちらのほうが遙かに「詐欺的」である。

この先何年か、はたまた何十年か眼鏡の厄介にならざるを得ないが、年金暮らしを前に、「詐欺」にかからないよう心がけようと思っている。

ちなみに今日は、吾輩59歳の誕生日だ。

マジ君と保育園

マジ君が通う保育園は、市立の保育所である。
園庭の桜や藤の古木が物語る、歴史と自然に恵まれたキンダーガーデンである。
春には見事な桜が咲く。園庭でこれほど見事なソメイヨシノを眺めることの出来る保育所も珍しい。

敷地に隣接して、幼稚園と小学校がある。また、交番と小児科の医院もあった。
医院は、道路拡張のため、近隣に移転してしまったが、以前は五種の公共施設が一塊になっていたのである。
今ではその跡形も無いが、この同じ場所に村役場もあったらしい。
村政がひかれた時代に、子どもたちの健康と安全を守ることを第一に配慮したと思われる
このような文教施設の配置に敬服したい。

春を迎えると、その3施設のそれぞれで、子どもたちの入園・入学を祝うかのようにソメイヨシノが見事な花をつける。
入園・進級・卒園・入学・進級・卒業という子どもたちの節目節目を、この花が彩る。
その淡くも華やかな彩りは、子どもたちの記憶の中に鮮やかに刻まれる。

そもそも、保育園や幼稚園を意味する“Kinder Garten”は幼稚園の創始者でもあるドイツの教育思想家F=フレーベルの造語だと言われている。“Kinder”は「子どもの」の意であり、“Garten”は、「囲い」を意味するヘブライ語の'gan’と、「楽しみ・喜び」を意味する'eden’の合成語だそうである。つまり「gan + eden。 囲いの中にある楽しみや喜び。」という語意を持つ。また、ギリシャ語では、 その場の主が、友人とともに楽しく過ごす空間としての庭を意味し、ゲルマン語では、 友人たちのためにつくられた喜びを分かちあう場所を意味するという。

無意識に使っている「園庭」という言葉が、このような歴史的・哲学的な語源に由来を持つと知った今、園庭の桜の木や「学園」の立地についても、郷土を開いた先哲の、深い洞察に感銘を覚えている。

晴れた日、夕方マジ君をお迎えに行くと、年少・年中・年長の子どもたちが、一日過ごしてもまだ遊び足りないかのように、時を惜しんで、のびのびと、生き生きと遊ぶ姿を見る。「遊びをせんとや生まれけむ」である。その姿をじっと見ていると、「わが身さえこそ、揺るがるれ」の心境となる。


  「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん  遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」
   (『梁塵秘抄』359)

こちらが、そのようにゆったりとした心境のとき、期せずして見知らぬ子どもたちまでが近寄ってきて、「マジ君のじいちゃんやん!」「ちがうよ、お父さんだってよ」「だって白髪があるもん」「年寄りやもん」とか、「抱っこして!」となる。
そうした子どもたちのことが、可愛くてたまらない。私の身体中を「エンドルフィン」なる物質が駆け巡る。この囲いの中に身を置くことが楽しいのである。
 
この保育所で年長として過ごす時間もあと7ヶ月となった。現在の年長組の友だちの進路が気になるらしく、
「●●ちゃんは●●小学校、○○ちゃんは○○小学校、◎◎ちゃんは◎◎小学校へ行くんだよ」と何度も繰り返しているマジ君。「でも、●●ちゃんはマジと同じだからよかったあ!」と言っている。保育内容として、年長の自覚を持たせる様々なカリキュラムが準備されていて、年長になってからの成長ぶりには、著しいものがある。

この保育所の立地は、現在推奨されている「中高一貫校」の利点を「保幼小一貫」という形で先取りしたものとも言える。そのような、歴史的・風土的基盤を持つこの保育所で、マジ君が2年あまりを過ごせたことは、彼の成育史の中でも大きな意義を持ち、人間形成の土台を作る役割を果たすものといえる。

昨夜、地域の「人権講座」で「子どもとメディア」のお話を、次男と一緒に聞きに行った。
先日の「全国ウェブカウンセリング協議会」主催の「心理療法カウンセリング講座」もそうだったが
現在、多くの子どもたちがおかれているもっとも深刻な環境の一つが、「ケータイ・メール」による被害だというテーマで一致していた。便利だから、安いから、儲かるから、安心だから、効率がよいからと「イケイケドンドン」で普及してきた「ケータイ」が子どもたちをとんでもない世界に巻き込んでしまっている。不登校や自殺にまで追い込む陰湿ないじめ、児童買春や児童ポルノという、子どもをターゲットにした売買春を蔓延らせるツールとなっている。ケータイをもたせることで安心・安全を、と買い与えたものが、無防備な子どもたちを陰惨な地獄へと導いているのだ。その実態を親も教師も知らないまま過ごしてきた。世界が始めて経験する「メディア汚染・電子汚染」の壮大な実験場として、
このわが国の「子どもとメディア」の現状が注目されているという。空恐ろしい事態である。そのような環境の中で育った世代が若い母親となり、乳児への授乳中にもケータイメールを打ち続ける姿も珍しくないという。

今、子どもと向き合うということの中に、以前には心配することも無かった様々な「環境」の問題が現出している。明快な処方箋すら見当たらない、様々な、危機的状況に直面している。規制のための法制化や環境整備が後追いしている現実である。そのような汚染された大海に、救助具ももたぬまま投げ出されている子どもたちの生命と安全を誰が守るのか。子どもと向き合うことを、今、根本から問い直すことが大人の側に問われていると思う。
 
  

お盆のお参り

お盆に妻の実家に帰ったとき、マジ君も仏壇におまいり。
マジ君にとってはおじさん(妻の弟)がお寺の住職なので、
このような作法も見よう見真似で、自然と身についてゆくようです。
「じゅげむ」の次は、「般若心経」を覚えてしまうことでしょう。
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『ウルトラマンアーカイブ』にはまるマジ君

テレビの視聴を1時間以内と決めているため、
最近のマジ君は、アンパンマンもポケモンもドラえもんも見ないで
ウルトラマンオンリーです。50代のわれわれ世代が見ていたもので、
郷愁はあっても、今の子どもにこれだけ熱中されるの要素があったのか、不思議な気がします。
きっとひきつけられるものがあるのでしょう。
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